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カトリック戸塚教会へ
Welcome to Totsuka Catholic Church!
主日ミサ: 土曜日 16:00, 日曜日 10:30
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2026年10月18日 年間第29主日
マタイ22:15-21 イエス様は今まで多くの人々に訴え、天の父の心と私たちへの思い、呼びかけを宣べ伝えて歩まれました。しかし、そのようなイエス様の心は、当時のファリサイ派の人々には理解されませんでした。そしてファリサイ派の人たちとイエス様との間に深い溝ができます。そのような中でファリサイ派の人々は、イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようとして、皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかどうかという問いをつきつけました。 当時の人々は皇帝に税を納めることで苦しんでいたので、イエス様が皇帝に税金を納めることは律法に適っているとおっしゃればきっとがっかりしたでしょうし、逆に律法に適っていないと言えば、ローマに対して反逆する者として訴えられる口実を与えることになります。どちらの答えをしてもイエス様を窮地に陥れる罠がしかけられた問いだったということです。それに対してイエス様は、皇帝に税金に納めるそのお金を見せなさいと言われ、このデナリオン銀貨に刻まれている像が皇帝であれば皇帝のものは皇帝に返せばよい。しかし神のものは神に返しなさいと、誰も想像し

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35 分前読了時間: 4分
2026年10月11日 年間第28主日
マタイ22:01-14 私たちが神様の存在を信じていても、神様は、今は直接のかたちで姿を表すことはなさいません。平凡に見える日々の出来事を通して働かれると言えるかもしれません。私たちは何か特別でこれは神様がなさった事だと誰もがわかるような出来事を望んでいるかもしれません。そうすれば、もっとイエス様のおっしゃること、また人生の意味や大切にすべきことがわかると思うからです。 今日の福音でイエス様は一つのたとえを話されます。王が自分の王子の婚宴を催し、招いておいた人々に呼びかけます。その婚宴に招かれていた人たちは、呼ばれたのに来ようとはしませんでした。2度も呼びかけられたのに無視してしまいます。それはなぜでしょう。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあります。彼らにとって婚宴に出かけていくこと以上に優先することがあったということでしょう。それは自分の仕事であり生活かもしれません。仕事そして生活は人間として大切にしなければならないことです。しかしそれ以上に大切で優先すべきことがあります。それは神様を大切にすること、そして感謝する心を持つことです。人々は

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7 日前読了時間: 4分
2026年10月4日 年間第27主日
マタイ21:33-43 誰でも作物を育てるなら、よい収穫を待ち望みます。イザヤの預言で神様は「私は良いぶどうが実るのを待った」と言われます。神様はいつも良いぶどうが実るのを待たれる方です。神様が私たちに望まれる良いぶどうの実りとは何を指しているでしょうか。イエス様は今まで幾度となく人々の心に訴え、愛とあわれみの大事さを宣べ伝えてこられました。生活に疲れた人々、社会の底辺で苦しむ人々、罪人や落ちこぼれた人々をやさしく包んでいかれました。またそうすることが神様の心であることを、身をもって示し続けられました。そしてもし人々の中に高ぶる心があるならば、そのあやまちを指摘されました。 しかし、そのようなイエス様の心は当時の祭司長たちや長老たちには理解されませんでした。彼らは、自分たちの考えややり方に自信を持ち、それを変えようとはしなかったのです。イエス様は自分の呼びかけが伝わらなかったこと、実らなかったことをどれほど悲しまれたでしょうか。そのような状況の中でイエス様は今日のたとえ話を話されたということです。 ぶどう園の収穫を受けとるために、ぶど

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10月4日読了時間: 4分
2026年9月27日 年間第26主日
マタイ21:28-32 留守番を頼まれてある島の教会へ行かれた神父様から聞いた話ですが、その島の教会には山の上に墓地があって、草がぼうぼうになっているので、神父様は教会の人々に今度の土曜日に草刈りをやるので来れる人は来てくださいと呼びかけました。教会の人々はいけたら行きますとよい返事をしてくれました。そして草刈りの当日になって神父様が墓地に行ってみると、来てくれたのはおばあさん一人だけでした。おばあさんは草刈りの知らせがあった時、手を挙げて行きますとは言っていませんでした。しかし実際来てくれたのは、このおばあさんだけだったということです。でもそのおばあさんは、私はずっと畑仕事をしてきて体は丈夫だから大丈夫ですよと言って、きれいに墓地の草刈りをしてくれました。 これは一つのある島の教会の例ですが、このようなことは結構あるのではないかと思います。私たちも何か神様の望まれることを行いたいという思いは持っていても、実際に神様の思いを実行には移すことはできずに終わることがあります。それはどうしてでしょうか。それはやはり私たちが神様の呼びかけを本気で受け取っ

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9月27日読了時間: 4分
2026年9月20日 年間第25主日
マタイ20:01-16 イエス様は、天の国、神の国がどのような場所であるか指し示すためにぶどう園の主人のたとえを話されます。そしてこのたとえの中心となるメッセージは、朝から働いた人たちが、夕方1時間しか働くことができなかった人たちも1デナリオンもらえたことを一緒に喜んであげることができたらよかったということです。私たちを雇ってくださったぶどう園の主人は、夕方1時間しか働くことができなかった人たちにもその人が生活できるために必要な賃金を支払ってくださるあたたかい心の持ち主である。そのことを皆で理解することができたら本当によかった。しかし、その思いよりも朝早くから働いた自分たちがもっと多くもらえなければ納得できないという考えがまさってしまったということです。イエス様がこのたとえで伝えようとされるのは、ぶどう園の主人に表されている天の父である神様の寛大であたたかい心と、その神様の心を一緒に喜ぶ心なのです。 第一朗読のイザヤの預言の言葉の中にも「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」とありま

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9月20日読了時間: 4分
2026年9月13日 年間第24主日
マタイ18:21-35 年間第24主日(2026年9月13日) 誰もが自分の経験として、自分の不注意で人を傷つけてしまったり、人に迷惑をかけてしまったことがあると思います。そしてそのことを相手が寛大にゆるしてくださり、それをありがたく感じたこともあるでしょう。このような相手のよさによって救われた体験は誰もが経験しているはずです。同時に自分はそのように相手から寛大にゆるしていただいたのに、大したことのない些細な自分が受けた損害を、寛大になれず、相手を責めた経験もまた皆あると思います。 イエス様が言われる「7の70倍まで赦しなさい」限りを設けずゆるしなさいという呼びかけは、私たちにとってなかなか十分に応えることができないものかもしれません。自分は人から寛大にゆるしていただいているのに、自分は人に対して厳しい態度を取り、相手を裁いてしまっている。イエス様が示してくださった掟の中で人をゆるすことほど難しいものはないかもしれません。私たちが人をゆるすことができるようになるには、やはり自分が人からゆるされていること、そして究極には神様が自分をゆるしてくださっ

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9月19日読了時間: 4分
2026年9月6日 年間第23主日
マタイ18:15-20 今日の福音でイエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われます。このイエス様の名によって共に集まる中にイエス様が共にいてくださるということを私たちはどう実感していったらよいでしょうか。 第一朗読で、主の言葉が預言者エゼキエルに臨みます。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。」預言者の役割は、神様から受けた言葉を民に伝えることです。それが人々にとって耳に心地よいものだったら預言者はどんなに楽だったでしょう。しかし、その神様からの言葉が民に対して警告を与えるものであれば、その使命は簡単なものではなくなります。人々から無視されたり、それで終わらず迫害も経験しなければならなくなります。エゼキエルもそのような中を歩みます。しかしエゼキエルが神様から受けた使命は、決して民を断罪することではありませんでした。民を回心させ、新しく生まれ変わらせることが目的でした。もし、私たち

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9月6日読了時間: 4分
2026年8月30日 年間第22主日
マタイ16:21-27 人間が願い、求めているものは救いだと思います。そしてその救いは、苦しみから解放されること、困難や様々な問題から自由になることです。人はそのために祈り、力を願うのだと思います。しかしイエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」と言われます。自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様の後を従い続けて生きる中に救いがあり、復活のいのち、永遠のいのちにつながるというのがイエス様を通して示された天の父からの真理です。私たちはこのことをどう受けとめ、自分のものにしていったらよいのでしょうか。 イエス様は、御自分が必ずエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺されることを弟子たちに打ち明けられます。それは弟子たちにとって根耳に水の話です。自分たちが真の先生としてお仕えしている方、そのイエス様の側でお仕えしていたら、きっと自分たちも将来安定した地位と救いを与えられるにちがいない。そのような期待を弟

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8月30日読了時間: 5分
2026年8月23日 年間第21主日
マタイ16:13-20 私は、イエス様を意識し大切にすること、そのために私たちが出来ることの一つとして、毎日イエス様に呼びかけ、イエス様と対話していくことの大事さを思います。それを皆さんも大事にして、実践してくださるとよいなと思っています。ある人にとっては、イエス様の存在は遠い2千年前のことであり、イエス様を信じてはいても、現代という時代の中で直接イエス様の存在を感じたり、語りかけたりするのは難しいのではないかと感じる人は多いと思います。教会に来ても、そのことが直接イエス様の心に触れていくことにつながっていかない。イエス様の存在をどこか遠い存在に思えてしまう。そのように感じている人は結構多いのではないでしょうか。 世の中には本当の救いを求めている人は多いです。でもそれが直接、神の子であり救い主であるイエス様につながることができていないことも事実です。その現実を見つめながら、今日の福音の中で私たちが耳にしたイエス様の言葉、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いに、私たちはどう答えることができるでしょうか。ただ言葉で告白す

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8月24日読了時間: 4分
2026年8月16日 年間第20主日
マタイ15:21-28 皆さんは、この8月をどのように過ごしておられるのかなと思います。暑い毎日が続いていますが、私たちが普段経験する様々な出来事を通して、神様が語ってくださる神様の思いを感じることができたらと願います。 今日の福音は、娘を助けてほしいと願うカナンの女性に対して、イエス様が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」そして「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」と言われる私たちにとって理解が難しい箇所です。そしてまず言えることは私たち人間が神様の救いの計画全てを理解し把握することはできないということです。 よく問われることは、どうして神様はイスラエルという民族をお選びになられたのかということです。イエス様もイスラエル民族の一人としてダビデ家の血筋をとる形で誕生されています。その神様がお選びになられたイスラエル民族は歴史の中で見れば、とても弱く小さな民族であったことがわかります。すべての人類の救いを望まれる神様が、その救いの器として最初にお選びになられたのは、その弱く小さなイスラエル民

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8月15日読了時間: 5分
2026年8月9日 年間第19主日
マタイ14:22-33 今日の福音は、イエス様が5千人もの人々を食べて満腹させられた後、一人祈るために山に登られたところから始まります。イエス様はなぜ一人で祈るために山に登られたのでしょうか。そしてイエス様にとって祈りとは何を意味したでしょうか。イエス様の祈りは、御自分の父である天の父に心を向けることだったと思います。御自分にとって一番大切な方である天の父に何でも話し、相談し、御自分がこれから行うこと、人々に伝えることを確認しておられたのだと思います。イエス様は、御父の了解なしに何もなさいませんでした。イエス様にとって天の父は特別な方であり、一番の理解者だったと思います。天の父と何でも話し、天の父の思いを行うことがイエス様の使命でした。 そのイエス様は湖の上で強い風と波に漕ぎ悩んでいる弟子たちのもとへ湖の上を歩いて近づいていかれます。湖の上を歩いて弟子たちの元へ近づいていかれるのは、イエス様がただの方ではなく、神の子であることを表しています。しかし弟子たちはイエス様のことを幽霊だと思い、恐れを感じてしまいます。私たちももし同じ状況にいたとしたら、

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8月9日読了時間: 4分
2026年8月2日 年間第18主日
マタイ14:13-21 今日私たちが聞いた福音は、イエス様が5つのパンと2匹の魚を用いて5千人の人々を満腹させられたというものです。私たちは普通この出来事を耳にすると、そんなことあるはずがないとか、イエス様は神の子である方だから、その気になればそういうこともおできになるだろう、そんな感じを覚えます。でもイエス様がこの出来事を通して私たちに伝えたいものがあるとしたら、それはただイエス様が神の子だから奇跡に思えることもおできになるということではないと思います。ある人たちはイエス様のなさったことを奇跡としてとらえることをしないで、この場面も実際には人々がそれぞれ持っていた食べ物を皆が出し合ったら十分皆が食べて満腹するだけの食べ物があったのだとみる人たちもいます。そしてやはり食べ物は分かち合うことが大事なのだという結論に導こうとします。 でも実際はどうだったのでしょうか。イエス様も弟子たちもここが人里離れた所でこのまま夕暮れになってしまったら、皆食べ物のことで困ることになることは十分わかっていたと思います。実際に弟子たちはイエス様に言います。「こ

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8月2日読了時間: 5分
2026年7月27日 年間第17主日
マタイ13:44-52 私は朝起きると、まず最初に天の父とイエス様と聖霊に今日も一日お守りください。私と共にいて、共に働いてくださいと語りかけています。そうすることで今日1日を、イエス様と聖霊と共に天の父に心を向けて過ごすことができるように願っています。 今日の第一朗読に登場するソロモンは、父ダビデ王の後を継いで、イスラエルの王となった人です。王として働く前にソロモンは夢の中に現れた主にただ一つのことを願い求めました。それは、人々を正しく導くことができる真の知恵でした。そしてその願いは、神様の心に適いました。主はソロモンに言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。」私たちも人生を生きる中で様々な願いを持っています。でも私たちが願わなければならないものがあるとしたら、それはこのソロモンが求め願った神の知恵かもしれません。この世を生きる上で正しい判断ができる知恵、真の知恵。この神の知恵をまず求め

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7月27日読了時間: 4分
2026年7月19日 年間第16主日
マタイ13:24-30 今日第一朗読で朗読された知恵の書で示されているのは、「神は全き権能を信じない者に御力を示され、知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。」ということです。これは、神様は神の全能を信じない者に力を示され、神に挑戦する者の高慢をとがめられる。しかしその神様がなさる裁きは、寛容で大いなる慈悲をもった裁きであり、神様は一息で神に逆らう者を滅ぼす力を持っておられるけれども、その力をむやみに用いることをなさらないということです。神様はいつも大いなる忍耐を持って、人間が心を神に向け直すことをずっと待っておられます。これが知恵の書で書かれていた内容です。 この神様の思いは、今日の福音のイエス様がなさったたとえ話でも示されています。この世の中には、イエス様のたとえに出てくるようによい麦と毒麦の両方が混在しています。そして人々はたとえに出てくる僕たちのように、毒麦は抜き集める必要があると考えます。しかしイエス様はよい麦も悪い麦も両方育つままにしておくように

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7月20日読了時間: 4分
2026年7月12日 年間第15主日
マタイ13:01-9 イエス様は神の子としてこの世に御父から遣わされて来られました。そしてそこには二つの目的がありました。一つは傷つき倒れ力を失っている人々を力づけ、励ますこと。それによって人が立ちあがって天の父が望まれる道を歩むことを願われたことです。そしてもう一つは、私たちが御父へ向かい、御父につながるための道を明らかにするということです。私たちと共にいて、私たちが御父に向かって歩み生きるその中に、真の喜びと私たちの救いがあることを表してくださったのがイエス様です。そのイエス様の思いは今も変わっていないと思います。 今日の第一朗読と福音で共通するテーマは、それを行うことが無駄であるか無駄ではないかということにあります。第一朗読のイザヤの預言では、「雨や雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。・・そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。神様の口から出る言葉は、むなしく戻ることは決してありません。必ずその望みを成

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7月11日読了時間: 5分
2026年7月5日 年間第14主日
マタイ11:25-30 これは自分の経験から言えることですけど、何かうまくいかないことやつらいことを経験した時、そのことをただやり過ごすよりも、そのつらい状態が変わらなくても、何かそこに大事な意味を見つけることができたり、神様とのつながりの中で、神様がそのことをわかってくださっていると感じられる体験をしていくとき、そのことが一番力になる気がします。 神様御自身にふれる体験を通して、生きる意味を見出していくこと。神様の慈しみのまなざしに心の目を向けて、つらいことや苦しいことに出会っても、神様に心を開いて、神様に何でも話して歩んで行くこと。 私たちの本当の力の回復は、神様にふれて、神様の呼びかけに応えて歩もうとする時与えられるものです。ただじっとして何もしないのではなく、私たちの本当の力の回復を願ってくださる神様につながって、自分の力を人々のために使っていくとき、私たちは本当の意味で元気になり、喜びに満たされるのだと思います。 今日のミサの朗読で、第一朗読のゼカリヤの預言と福音書には共通するものがあります。それは、神の元から来られるメ

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7月4日読了時間: 4分
2026年6月28日 年間第13主日
マタイ10:37-42 主日のミサではいつも3つの聖書箇所が朗読されます。そして最初の第一朗読と福音箇所はある共通のテーマで選ばれています。そして今日の共通するテーマはもてなすということです。第一朗読で読まれた列王記では、預言者エリシャをもてなした一人の裕福な婦人が登場します。彼女はエリシャを引き止め、食事を勧め、小さな部屋を作ってもてなします。それはエリシャを聖なる神の人であることを認めているからです。その婦人に神様はエリシャを通して子どもを授けるという祝福を与えられます。神様から与えられた使命を果たす人をあたたかく迎えもてなすこと。それは神様の思いにかなっているということをこの出来事は表しています。 福音ではイエス様は言われます。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様の弟子に対して、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人に、イエス様は報いを約束されます。それはイエス様から遣わされて働く弟子たちの使命が尊く、大事なものだからです。同時に弟子たちも自分

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6月28日読了時間: 5分
2026年6月21日 年間第12主日
マタイ10:26-33 私たちは、人に対して厳しいことや難しく思われることを伝えることは簡単ではないと感じます。人が喜ぶことだけを話すだけでよかったら、どんなに簡単かと思います。しかし現実はそのようなことばかりではありません。 旧約時代に活躍した預言者と呼ばれた人たち。預言者は天の父からの言葉を預かり、それを人々に伝えました。そしてその多くの言葉は回心を求めるものでした。今の生活を改め、心を神様に向け直しなさい。神様の思いを生きるように努めなさい。しかし人々は預言者たちの語る言葉に耳を傾けませんでした。傾けないばかりか、迫害しました。今日の第一朗読に登場するエレミヤもそのような預言者の一人でした。エレミヤは言います。「わたしには聞こえています。多くの人の非難が。」「わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えています。」エレミヤはそのような状況の中で、天の父に向って「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします

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6月20日読了時間: 5分
2026年6月14日 年間第11主日
マタイ09:36-10:8 以前読んだカトリック新聞に、ドイツのカトリック教会、信者と収入の大幅減少で資産3分の1放棄の危機という記事が載っていました。ドイツは今、教会に来る人が急激に減っていて、司祭召命、信者の数の着実な減少、そして収入減が続いて、多くの小教区、修道院の閉鎖が余儀なくされているということです。この傾向はドイツに限らず他のヨーロッパ諸国でも見られるということです。 私はこの記事を読みながら、日本の教会の現状はどうだろうかと考えます。特に人口減少が進んでいる地方の教会や信徒数が少ない小教区は将来維持するのが困難になることが予想されます。 かつて荒廃した日本の地に多くの宣教師が訪れ、日本各地に教会が建てられていきました。その頃洗礼を受けられた方々が年を取られ、外人の神父様方も高齢になられて帰国されたり亡くなられたりしています。かつて若かった方々が年を取られ、存続の危機が起きているということです。 このような現実に目を向けることなく、成り行きにまかせる態度を取る人も多いと思います。信徒もいなくなり、建物も古くなって維持ができなくなれば、

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6月14日読了時間: 4分
2026年6月7日 キリストの聖体の主日
ヨハネ6:51-58 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」イエス様が言われる「このパンを食べる」には2つの意味が込められていると思います。その一つは文字通りイエス様の体としての御聖体を拝領すること。そしてもう一つはイエス様の心を自分が実際に生きることです。 かつてマザーテレサは、自分は1日に2度イエス様の体を拝領すると言われたことがあります。マザーテレサは1日の始まりに行われる朝のミサをとても大切にしておられました。そして特にそのミサの中での聖体拝領をとても大事にしておられました。マザーテレサはイエス様の体である御聖体に対して特別な思いを持っておられたと思います。イエス様の体である御聖体を拝領することでイエス様と一つになる。それがどれほど大きな恵みであるかマザーテレサは知っておられました。イエス様との一致なしに自分はイエス様の心を生きることはできないと深く心に刻んでおられたと思います。同時にマザーテレサは、その1日をイエス様の心で生きることも大切にしておられました。御聖体を拝領することでイ

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6月6日読了時間: 8分
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