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カトリック戸塚教会へ
Welcome to Totsuka Catholic Church!
主日ミサ: 土曜日 16:00, 日曜日 10:30
平日ミサ: 火曜日~木曜日 9:30
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SUNDAY MASSES:
Saturday 4:00PM, Sunday 10:30AM
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2026年5月31日 三位一体の主日
もし皆さんが子どもたちに神様ってどのような方かについて話すとしたら、どのように話されるでしょうか。神様は目に見えないけど、私たちといつも共にいて下さる方、私たちの幸せを願って導いてくださる方、そのように話すことができるかもしれません。そして神様のことを話すとき、私はその手がかりとして神の子であるイエス様のことから話を進めていくと、話しやすいのではないかと思います。 神様は私たちの目でその姿を直接見ることはできません。でも2千年近く前、イエス様がこの世に来て話をしてくださり、力ある業を行ってくださったことによって神様の姿と心を表してくださいました。イエス様は、私には父がいるとおっしゃられ、御自分の父である方、天の父についてたくさんの話をしてくださいました。神の子であるイエス様が伝えてくださったから、私たちは天の父がどのような方か、またどのような心の方か知ることができます。 イエス様にとってもこの御自分の父である方がとても大切な方であり、いつも天の父に向かって祈っておられました。イエス様にとって祈りは御自分の父と何でもお話なさることでした。そ

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4 日前読了時間: 4分
2026年5月24日 聖霊降臨
ヨハネ20:19-23 イエス様は復活され40日に渡って姿を現わされた後、昇天されました。そしてマリア様と弟子たちはしっかりつながって共に祈っていました。そこにイエス様が約束された通り聖霊が注がれました。これが教会の誕生の場面だったということです。 弟子たちは教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じました。これまで神から遣わされた者としてイエス様が地上で行なわれてきたことを、これからは弟子たちが引き継いでいくことになります。そして弱い人間である弟子たちがこの使命を生きることができるように聖霊という神の息吹、神の力が与えられます。 イエス様を置いて逃げてしまった弟子たちも、イエス様から聖霊を受けることで、神の愛を証しする者に変えられていきました。そして最後はイエス様と同じように命を捧げました。 イエス様が天の父のもとから送られる聖霊は、人をあたため、励ましと導きを与えます。聖霊は、神に逆らう働きに対して神の光で照らしていきます。深い闇の中にあった弟子たちを真の光の世界に導いたのも聖霊です。そしてその同じ聖霊が現代を生きている私たちにも働き

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5月23日読了時間: 3分
2026年5月17日 主の昇天
マタイ28:16-20 今日私たちは、主の昇天の出来事を記念します。昇天という出来事は、ある意味でイエス様と弟子たちとの別れを意味したでしょう。天の父はイエス様が復活された後、ずっと弟子たちのもとで姿が見えるかたちで留まり続けることをなさいませんでした。復活されたイエス様が弟子たちのもとから離れて天に向かわれる。でもそれを天の父はあえてなさったのだと思います。 イエス様がこの世に残り続けられれば、もっと大きな業をなさることができたかもしれません。でもそうすれば、弟子たちはいつまでも弟子のままで終わってしまったでしょう。イエス様が全部してくださる。イエス様にまかせて自分達は何もしなくて、ただついていくだけでよい。そのような思いを持ってしまったかもしれません。でも天の父のお考えは、これからは弟子たちがイエス様の働きを引き継ぐことをお決めになります。 イエス様は言われます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」これは、こ

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5月16日読了時間: 4分
2026年5月10日 復活節第6主日
ヨハネ14:15-21 今日の福音の中心にあるのは、「あなたがたをみなし子にしておかない。私はあなたがたのところに戻ってくる」というイエスの言葉です。「みなし子」とは、生きていくために頼りとなる親を失ってしまった子どもたちのことです。頼りになる存在を失った状態、弱く無力な状態を表す「みなし子」という言葉を用いながら、イエス様は私たちに「あなたがたをみなし子にしておかない。私はあなたがたのところに戻ってくる」と力強い励ましの言葉を述べてくださいます。 このイエス様の言葉は、最後の晩さんの席でのものです。イエス様は、自分は目に見える形ではもういなくなる、しかし、御自分に代わって聖霊を遣わしていただくように御父に願うことを約束されます。イエス様は聖霊を遣わすために御父のもとに戻られ、これからは聖霊の働きのうちに私たちと共にいてくださることを表されます。 聖霊は私たちのうちに働く神の力のことです。聖霊は私たちのための弁護者、真理の霊として働かれます。その弁護者と呼ばれる聖霊と、復活されたイエス様が目に見えない形で私たちのうちにおられ、私たちを支え導い

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5月10日読了時間: 4分
2026年5月3日 復活節第5主日
ヨハネ14:1-12 私たちが今日聞いたヨハネ福音の箇所は、よく葬儀ミサの時に朗読する箇所です。イエス様は御自分の父の所には住む所がたくさんあって、私たちのために場所が用意できたら私たちを迎えてくださると約束してくださいます。私たちは死と聞くと、誰もが恐れを抱きます。それは亡くなった後どうなるかがわからないからです。でもイエス様の言葉を信じるなら私たちにとって死はこの世からの旅立ちであり、イエス様が用意してくださる場所に向かって希望を持って旅立つということなのだと思います。 イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われます。心を騒がせる。私たちはどういう時、心を騒がせるのでしょうか。それは、自分の中でいろんなことがうまくいっていない時、心に平安がない時、気にかかる出来事がたくさんある時、そのような時、私たちは心を騒がせます。私たちは普段どんなに心が満たされ、平安に包まれて、喜びを感じて歩むことを願っているでしょうか。でも私たちの現実は、なかなかそうはなりきれていません。その私たちにとってつらく感じる

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5月2日読了時間: 4分
2026年4月26日 復活節第4主日
ヨハネ10:1-10 私たちは今、復活節を過ごしています。そして今日はその4番目の主日です。福音ではヨハネの福音10章が読まれました。この箇所が選ばれているのは、良き牧者として今も生きておられるイエス様と私たちとの関わりを味わうためです。イエス様は言われます。「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 イエス様は御自分を羊飼いにたとえておられます。そして良い羊飼いは羊をすべて連れ出して豊かな命へと導いていきます。このイエス様の言葉の中で私は「羊はその声を知っている」という言葉に目がとまります。私たちが何かを知っていると言うとき、それは知識を持っているというより、実際に経験を通してすばらしさを味わったことがあるという意味です。私たちが何かについて知識として知っていることと実際に体験を通して知っていることとはやはり違いがあると思います。...

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4月26日読了時間: 4分
2026年4月19日 復活の第3主日
ルカ24:13-35 私たちは今、イエス様が復活されたその喜びを味わう復活節を過ごしています。そしてそのイエス様が復活された出来事と自分がどうつながることができるか、どうつながっていったらよいか、そのことが今生きている私たちに問いかけられていると思います。イエス様は確かに復活されました。そして喜びの知らせを伝えてくださいました。しかしその出来事と今の自分がどうつながることができるのだろう。このような問いは、誰もが感じる正直な問いであり、そしてとても大事な問いです。ただ漠然とイエス様の復活の出来事を思うのではなく、この自分にとっても関係してくる大きな出来事だと思えるようになっていく。そのことが私たち一人ひとりに呼びかけられています。 今日の福音の場面で登場するエマオへ向かっていた二人の弟子は、失意のうちだったと思います。イエス様の十字架の死は、弟子たちのつながりを壊してしまうほどの大きな出来事でした。この二人の弟子は他の仲間から離れ、二人だけでエルサレムを後にしてエマオへ向かって旅立ちます。彼らの心には、もうエルサレムにとどまっていても仕方

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4月19日読了時間: 4分
2026年4月12日 復活の第2主日
ヨハネ20:19-31 イエス様が十字架につけられて息を引き取られた後、弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもって、中から家の戸に鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。この家の戸は、彼らの心の戸を表していると言えるかもしれません。弟子たちは恐れから心を閉ざし、現実から離れて閉じこもっています。そんな弟子たちの中に、復活されたイエス様が現れ、弟子たちの「真ん中に」立たれます。そして弟子たちへの最初の言葉が「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。 イエス様を捨てて逃げてしまった弟子たちに、イエス様が語られた最初の言葉は、彼らの弱さを責めるものではなく、彼らの平和を願ってくださる言葉でした。弟子たちはそのイエス様の言葉によって勇気づけられました。そして喜びに満たされました。「あなたがたに平和があるように。」とても深みがあり、心の奥からこだまするような響きをもった言葉です。この平和が恐れを喜びに変えます。 少しその時の状況を見てみたいと思います。弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全だったでしょう。「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(

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4月12日読了時間: 5分
2026年4月5日 復活の主日
ヨハネ20:1-9 私たちはこの木曜日から聖なる3日間を過ごしてきました。そこで記念されていたのは、神の子であるイエス様が弟子たちの足を洗い、御自分の体である聖体を制定し、十字架の苦しみを担って亡くなられたということでした。そしてそれは神様がどのように私たちを愛してくださっているかを表すものでした。神様は高みから人間を見下ろす方ではなく、逆に私たちの下になって私たちの足を洗ってくださる方、私たちに代わってその罪の代償である苦しみを担ってくださる方、神様とはそのような方であるということ。そしてその苦しみは、私たちが古い自分に死んで新しいいのちに生きるようになるための苦しみでした。 古い自分に死んで新しいいのちに生きるようになる、それが神の子であるイエス様の私たちへの一番の思いです。その新しいいのちの生き方、イエス様につながる生き方は簡単なものではないかもしれません。洗礼を受けたから困難が無くなるわけではありません。損に思えることもたくさんあるでしょう。しかし損が損ではないと思える、それが恵みであり、私たちが神様から招かれている生き方です。

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4月5日読了時間: 4分
2026年3月29日 受難の主日
マタイ21:1-11 今日、私たちは聖週間の最初の日、受難の主日を記念しています。受難の主日は、イエス様が天の父のみ旨に従おうとする熱意と、人々のために身を捧げたいという思いから、あえて苦しみが待っているエルサレムに向かって進んでいかれたその出来事を思い起こす日です。その受難の主日で一番大事な姿は、ろばに乗ってエルサレムに入城されるイエス様の姿、そしてそのイエス様の心の思いです。 ろばは、荷物を背に載せて運ぶ役割をしていた動物です。そして働く貧しい人たちのための動物でした。王様とか、地位のある人、金持ちはろばに乗ったりはしません。きっと立派な馬に乗るでしょう。でもイエス様は、ろばに乗って行かれる方、そのような方として御自分をお示しになられました。 そしてイエス様が向かわれるその先エルサレムで待っているのは、苦しい十字架の死でした。イエス様はそれを知った上で、そこに向かってろばに乗って進んで行かれます。 人々はそのようなイエス様の心の思いに気づかず、イエス様のことを自分たちを苦しみや貧しさ、敵からの圧迫から救ってくださる方、その意味での

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3月28日読了時間: 4分
2026年3月15日 四旬節第4主日
ヨハネ09:1-41 私も司祭として働いていますが、司祭という存在もときにファリサイ派や律法学者のような態度をとってしまう危険があると思います。教えること、導くことに力が入りすぎて、一番大事な慈しみと憐れみを忘れてしまうということです。そして苦しんでいる人、病んでいる人の痛みを共感できなくなってしまうことがあります。でも、一番大事なことは、教える知識ではなく、慈しみや憐れみ、また人の心、思いを感じ取る心の姿勢だと思います。聖書に登場するファリサイ派や律法学者の人達は、掟に関する知識は相当なものだったでしょう。でも人の痛みや悲しみに対してはどうだったでしょうか。 今日の福音で生まれつき目が不自由だった人がイエス様によっていやされる場面が描かれています。目が見えなかった人が見えるようになる、その喜び。それは体験した人にしかわからないものかもしれません。でもそれはきっと言葉に表せないほどの大きな喜びであることはわかります。しかしファリサイ派や律法学者達にとっては、そのいやしが掟に適ったかどうかが大切で、その人が抱えてきた今までの人生の苦しみ、悲

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3月15日読了時間: 4分
2026年3月8日 四旬節第3主日
ヨハネ04:5-42 出エジプト記に「民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。」とあります。エジプトを出て荒れ野を歩む中で、イスラエルの民は水の渇きを覚え、モーセに不平を述べます。それは食べ物や飲み水に苦しむことのなかったエジプトでの生活をなつかしむ気持ちとも一つになっています。そしてモーセに従ってエジプトを出発したことへの後悔の気持ちも起こります。確かにエジプトで課せられた重労働は耐えがたいものでした。しかし今、モーセに連れられてエジプトを脱出したものの、この渇きには耐えられない。これから先、自分たちはどうなるのか、その不安も強くなって民の不平も強まります。その民の訴えにたまらなくなったモーセは主に向かって「わたしはこの民をどうすればよいのですか。」と叫びます。結果として主がモーセに指示を与え、岩を打つとそこから水が出て、民は飲むことができました。 私たちはこの出エジプトの出来事をどう受けとめたらよいでしょうか。不平や不満がたまったら神様に叫べば聞いてもらえるということでしょうか。私はそうは思いません。逆に私たちが

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3月8日読了時間: 4分
2026年3月1日 四旬節第2主日
マタイ17:1-9 今日の福音の箇所はイエス様の姿が弟子たちの前で光輝く姿に変えられた出来事を表している箇所です。主の変容の場面とも言われます。どうしてその場面が、この四旬節の第二の主日の福音の箇所に選ばれているのでしょうか。それは私たちが過ごしている四旬節の意味と私たちが生きるその目的と関係があるからだと思います。 イエス様はこの変容の場面の前に弟子たちに自分がこれから担う受難について話されています。しかし、弟子たちはそのことの意味が本当の意味で理解できませんでした。自分たちが信頼して聞き従っている方が、受難、苦しみを受けることになるなど想像もしていなかったと思います。そんな弟子たちがイエス様がこれから担われること、その姿に恐れをなしてしまわないように、そしてイエス様の受難と苦しみを見て自分たちの希望を失ってしまわないように、そのためにイエス様は弟子たちを連れて山に登られ、御自分の栄光に輝く姿、真の姿をお示しになったのだと思います。 そして同時に、弟子たちだけでなく私たちにも受難、苦しみがあることを恐れてはならないこと、神様が望まれ

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2月28日読了時間: 4分
2026年2月22日 四旬節第1主日
マタイ4:1-11 今年も灰の水曜日から四旬節が始まりました。この四旬節の間、私たちと神様とのつながり、関係をより深め強めていく時として過ごしていくことができますように、その恵みを願いたいと思います。 イエス様は人々の前で公に活動を始められる前に荒れ野に退かれ、そこで40日間断食と祈りの生活をされました。イエス様はそこで何に立ち向かい何を祈られたのでしょうか。 今日の福音は、その荒れ野でイエス様を悪魔が誘惑する場面です。そして悪魔の誘惑の鍵は神の子ならこれをしたらどうだというものでした。神の子なら石をパンに変えることも、神殿の屋根から飛び降りることもできるはずだ。石をパンに変えることができる。神殿の屋根から飛び降りても天使が支えてくれる。悪魔はそれが神の子であるしるしだというとらえ方をします。しかしイエス様はこの悪魔のとらえ方をはっきりと退けられます。神の子であるとはそういう意味ではないと。 自分の空腹を満たすために、また自分をあらゆる危険から守るために神の力を使うのではない。イエス様は悪魔からの誘惑をすべて神様との関係を用いて退けて

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2月22日読了時間: 4分
2026年2月15日 年間第6主日
マタイ5:17-37 第一朗読で読まれた旧約聖書のシラ書は、紀元前2世紀頃に書かれたものです。そしてそのころのイスラエルは、他文化の影響を受け、伝統的な価値観や宗教心が失われる危機を抱えていました。人々は神様よりも人間の経験や知恵、自分たちの判断を重んじるようになっていました。でもイスラエルの民の原点はあくまで主を愛し、契約を守り行うことにありました。主を愛し、その道に従って歩むことが真に求められる生き方でした。現代を生きる私たちも同じかもしれません。現代の文化の影響を受け、物質的、金銭的な富を求め、利己主義になり、慈しみの心を忘れて生きているかもしれません。 今日の福音でイエス様は言われます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである。」「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」イエス様が完成されるものとは、神様の思い、望みがこの世において実現されることです。そしてそれはこの世に愛と憐れみが隅々にまで行きわたることを意味します。 律法の精神を短くまとめるなら、それは神と人を

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2月15日読了時間: 4分
2026年2月8日 年間第5主日
マタイ5:13-16 「あなたがたは地の塩である。世の光である。」イエス様の有名な言葉です。この地の塩である、世の光である言葉でイエス様は何を私たちに呼びかけておられるでしょうか。それを心に留めながらミサを共に捧げましょう。 かつて預言者イザヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚という憂き目から解放されて、祖国に帰ることができ、そこで主の栄光を味わう日が訪れることを預言し、人々を励ましました。そして実際にバビロン捕囚から解放される日が訪れ、人々は喜びにあふれました。しかし人々が期待していた主の栄光に包まれる出来事は起こりませんでした。人々の心はやがて神から離れ、利己主義に走り、形式的な断食や、争いやいさかいが起こりました。なぜ主の栄光の光が輝くことが起こらなかったのでしょうか。それは人々が神に聞き従う生活を送らなかったからだと思われます。 イザヤは言います。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすればあなたの光は曙のように射

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2月8日読了時間: 5分
2026年2月1日 年間第4主日
マタイ5:1-12 今日の福音の場面は、イエス様が群衆の前で初めて説教をなさった場面でいわゆる山上の説教と呼ばれているものです。その説教の中でイエス様は、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々は幸いであると言われます。心の貧しい人々とは、貧しさゆえに神様にしか頼るすべを持たない人々のことで、フランシスコ会訳聖書では「自分の貧しさを知る人」とされ、新共同訳ができる前の共同訳聖書では「ただ神により頼む人」と訳されています。 悲しむ人々、悲しみを抱えている人々、今悲しみの中にある人々。柔和な人々は貧しさや抑圧のゆえにへりくだりと忍耐を生きなければならない人々のことです。義に飢え渇く人々は、不正がはびこる中でその犠牲となり、苦しんでいる人々のことです。イエス様が話された幸いな人々の最初の4つの部分にあてはまる人々は、今苦しみの中にあって耐え忍んでいる人々です。その人々をイエス様は、あなたがたは幸いだと言われます。そして天の国はその人たちのものである、その人たちは慰められる、地を受け継ぐ、満たされると言われます。 ...

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1月31日読了時間: 3分
2026年1月25日 年間第3主日
マタイ4:12-23 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」イエス様は二人の兄弟にそう呼びかけられます。イエス様は私たち一人ひとりにも「わたしについて来なさい」と呼びかけられています。私たちもその呼びかけを大事に受け留め、それに応えることができるよう祈りましょう。 もし、私たちの住む地域が他国によって占領されるような事態が予告されたら、私たちはどのような態度を取るでしょうか。かつて預言者イザヤが活動した時代は、強国アッシリアの支配が北イスラエル領にまで及んでいた時代でした。今日の第一朗読に登場したゼブルンの地、ナフタリの地、そしてガリラヤもアッシリア領に編入されてしまいました。イザヤはこのような状況の中で人々が「栄光を受け」、「大いなる光を見る」ことになると説きます。そしてそれは「ひとりのみどりご」の誕生によってもたらされることを説きます。絶えることのない平和が享受されるのは、人間の知恵や力によってではなく、神への信頼、神のみ言葉への信頼に神が応えてくださるかたちでもたらされます。そして現実に「ひとりのみどりご」が誕生し、そのみど

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1月25日読了時間: 4分
2026年1月18日 年間第2主日
ヨハネ01:29-34 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。ヨハネは自分の方へ近づいて来られるイエス様を見てこう言います。「世の罪を取り除く神の子羊」、この言葉に示されていることは何でしょうか。まず子羊という言葉。子羊は屠られていけにえとして捧げられるために使われる動物でした。そして世の罪を取り除く神の子羊ですから、それはこの世の罪、人間の罪を取り除くために屠られ、いけにえとして捧げられることを意味します。つまり、神の子であるイエス様が私たちの罪を取り除き、償うためにいけにえとして捧げられる子羊になってくださるということです。それがイエス様のお姿であるということです。そしてそれはまさにイエス様が受けてくださった十字架の死を意味します。 私たちはイエス様の十字架の死が私たちの罪を取り除くための死であったことは、知識としては知っています。しかし、現実としてそれがこの自分とどうつながっているのか、イエス様の十字架の死がなぜ自分の罪を取り除くことになるのか、こういうことになると、誰も正確にその真の意味を説明できる人はいないのではないかと思います

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1月18日読了時間: 4分
2026年1月11日 主の洗礼
マタイ3:13-17 今日の福音には4度「星」という表現が現れます。そしてこの星と対峙しているのは夜の闇です。イエス様の誕生が輝く星で示されたのは、人間が生活している場が闇に包まれているからだと思います。人が思うように生きることができていない。いろんな困難の中で力を失い倒れてしまっている人がいる。神様が望まれた、人は本来助け合うために存在していることが十分に機能してはいない。これらのこの世の闇と言える状態は、イエス様が誕生された2千年前も、そして今もその本質は変わっていないと言えます。そのような状態の中で、天の父はご自分の独り子をこの世を照らす光とするために送ることをお決めになられました。イエス様の到来は、希望すべきすべがないところになおも心を向けることができる希望の光が表されることを意味します。 第一の朗読でイザヤの預言が読まれました。この預言者イザヤが告げるのは、今がどんなに失意のもとにあっても、また重い生活がのしかかっていても、必ず主の栄光が到来するということです。預言者イザヤが活躍した時代は、バビロン捕囚も終わり一見世の中は平和が

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1月11日読了時間: 4分
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