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ようこそ
カトリック戸塚教会へ
Welcome to Totsuka Catholic Church!
主日ミサ: 土曜日 16:00, 日曜日 10:30
平日ミサ: 火曜日~木曜日 9:30
金曜日 10:00
SUNDAY MASSES:
Saturday 4:00PM, Sunday 10:30AM
WEEKDAY MASSES:
Tuesday to Thursday 9:30AM
Friday 10:00AM
☆十字架の道行き☆
・毎週金曜日10時ミサ後
☆聖週間の典礼☆
・受難の主日(枝の主日) 3/28(土)16:00~、29(日)10:30~
・聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ) 4/2(木) 19:30~
・聖金曜日(主の受難) 4/3(金) 19:30~
・復活の主日(復活の聖なる徹夜祭) 4/4(土) 19:30~
・復活の主日(日中のミサ) 4/5(日) 10:30~ 洗礼式

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2026年4月5日 復活の主日
ヨハネ20:1-9 私たちはこの木曜日から聖なる3日間を過ごしてきました。そこで記念されていたのは、神の子であるイエス様が弟子たちの足を洗い、御自分の体である聖体を制定し、十字架の苦しみを担って亡くなられたということでした。そしてそれは神様がどのように私たちを愛してくださっているかを表すものでした。神様は高みから人間を見下ろす方ではなく、逆に私たちの下になって私たちの足を洗ってくださる方、私たちに代わってその罪の代償である苦しみを担ってくださる方、神様とはそのような方であるということ。そしてその苦しみは、私たちが古い自分に死んで新しいいのちに生きるようになるための苦しみでした。 古い自分に死んで新しいいのちに生きるようになる、それが神の子であるイエス様の私たちへの一番の思いです。その新しいいのちの生き方、イエス様につながる生き方は簡単なものではないかもしれません。洗礼を受けたから困難が無くなるわけではありません。損に思えることもたくさんあるでしょう。しかし損が損ではないと思える、それが恵みであり、私たちが神様から招かれている生き方です。

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4 日前読了時間: 4分
2026年3月29日 受難の主日
マタイ21:1-11 今日、私たちは聖週間の最初の日、受難の主日を記念しています。受難の主日は、イエス様が天の父のみ旨に従おうとする熱意と、人々のために身を捧げたいという思いから、あえて苦しみが待っているエルサレムに向かって進んでいかれたその出来事を思い起こす日です。その受難の主日で一番大事な姿は、ろばに乗ってエルサレムに入城されるイエス様の姿、そしてそのイエス様の心の思いです。 ろばは、荷物を背に載せて運ぶ役割をしていた動物です。そして働く貧しい人たちのための動物でした。王様とか、地位のある人、金持ちはろばに乗ったりはしません。きっと立派な馬に乗るでしょう。でもイエス様は、ろばに乗って行かれる方、そのような方として御自分をお示しになられました。 そしてイエス様が向かわれるその先エルサレムで待っているのは、苦しい十字架の死でした。イエス様はそれを知った上で、そこに向かってろばに乗って進んで行かれます。 人々はそのようなイエス様の心の思いに気づかず、イエス様のことを自分たちを苦しみや貧しさ、敵からの圧迫から救ってくださる方、その意味での

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3月28日読了時間: 4分
2026年3月15日 四旬節第4主日
ヨハネ09:1-41 私も司祭として働いていますが、司祭という存在もときにファリサイ派や律法学者のような態度をとってしまう危険があると思います。教えること、導くことに力が入りすぎて、一番大事な慈しみと憐れみを忘れてしまうということです。そして苦しんでいる人、病んでいる人の痛みを共感できなくなってしまうことがあります。でも、一番大事なことは、教える知識ではなく、慈しみや憐れみ、また人の心、思いを感じ取る心の姿勢だと思います。聖書に登場するファリサイ派や律法学者の人達は、掟に関する知識は相当なものだったでしょう。でも人の痛みや悲しみに対してはどうだったでしょうか。 今日の福音で生まれつき目が不自由だった人がイエス様によっていやされる場面が描かれています。目が見えなかった人が見えるようになる、その喜び。それは体験した人にしかわからないものかもしれません。でもそれはきっと言葉に表せないほどの大きな喜びであることはわかります。しかしファリサイ派や律法学者達にとっては、そのいやしが掟に適ったかどうかが大切で、その人が抱えてきた今までの人生の苦しみ、悲

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3月15日読了時間: 4分
2026年3月8日 四旬節第3主日
ヨハネ04:5-42 出エジプト記に「民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。」とあります。エジプトを出て荒れ野を歩む中で、イスラエルの民は水の渇きを覚え、モーセに不平を述べます。それは食べ物や飲み水に苦しむことのなかったエジプトでの生活をなつかしむ気持ちとも一つになっています。そしてモーセに従ってエジプトを出発したことへの後悔の気持ちも起こります。確かにエジプトで課せられた重労働は耐えがたいものでした。しかし今、モーセに連れられてエジプトを脱出したものの、この渇きには耐えられない。これから先、自分たちはどうなるのか、その不安も強くなって民の不平も強まります。その民の訴えにたまらなくなったモーセは主に向かって「わたしはこの民をどうすればよいのですか。」と叫びます。結果として主がモーセに指示を与え、岩を打つとそこから水が出て、民は飲むことができました。 私たちはこの出エジプトの出来事をどう受けとめたらよいでしょうか。不平や不満がたまったら神様に叫べば聞いてもらえるということでしょうか。私はそうは思いません。逆に私たちが

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3月8日読了時間: 4分
2026年3月1日 四旬節第2主日
マタイ17:1-9 今日の福音の箇所はイエス様の姿が弟子たちの前で光輝く姿に変えられた出来事を表している箇所です。主の変容の場面とも言われます。どうしてその場面が、この四旬節の第二の主日の福音の箇所に選ばれているのでしょうか。それは私たちが過ごしている四旬節の意味と私たちが生きるその目的と関係があるからだと思います。 イエス様はこの変容の場面の前に弟子たちに自分がこれから担う受難について話されています。しかし、弟子たちはそのことの意味が本当の意味で理解できませんでした。自分たちが信頼して聞き従っている方が、受難、苦しみを受けることになるなど想像もしていなかったと思います。そんな弟子たちがイエス様がこれから担われること、その姿に恐れをなしてしまわないように、そしてイエス様の受難と苦しみを見て自分たちの希望を失ってしまわないように、そのためにイエス様は弟子たちを連れて山に登られ、御自分の栄光に輝く姿、真の姿をお示しになったのだと思います。 そして同時に、弟子たちだけでなく私たちにも受難、苦しみがあることを恐れてはならないこと、神様が望まれ

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2月28日読了時間: 4分
2026年2月22日 四旬節第1主日
マタイ4:1-11 今年も灰の水曜日から四旬節が始まりました。この四旬節の間、私たちと神様とのつながり、関係をより深め強めていく時として過ごしていくことができますように、その恵みを願いたいと思います。 イエス様は人々の前で公に活動を始められる前に荒れ野に退かれ、そこで40日間断食と祈りの生活をされました。イエス様はそこで何に立ち向かい何を祈られたのでしょうか。 今日の福音は、その荒れ野でイエス様を悪魔が誘惑する場面です。そして悪魔の誘惑の鍵は神の子ならこれをしたらどうだというものでした。神の子なら石をパンに変えることも、神殿の屋根から飛び降りることもできるはずだ。石をパンに変えることができる。神殿の屋根から飛び降りても天使が支えてくれる。悪魔はそれが神の子であるしるしだというとらえ方をします。しかしイエス様はこの悪魔のとらえ方をはっきりと退けられます。神の子であるとはそういう意味ではないと。 自分の空腹を満たすために、また自分をあらゆる危険から守るために神の力を使うのではない。イエス様は悪魔からの誘惑をすべて神様との関係を用いて退けて

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2月22日読了時間: 4分
2026年2月15日 年間第6主日
マタイ5:17-37 第一朗読で読まれた旧約聖書のシラ書は、紀元前2世紀頃に書かれたものです。そしてそのころのイスラエルは、他文化の影響を受け、伝統的な価値観や宗教心が失われる危機を抱えていました。人々は神様よりも人間の経験や知恵、自分たちの判断を重んじるようになっていました。でもイスラエルの民の原点はあくまで主を愛し、契約を守り行うことにありました。主を愛し、その道に従って歩むことが真に求められる生き方でした。現代を生きる私たちも同じかもしれません。現代の文化の影響を受け、物質的、金銭的な富を求め、利己主義になり、慈しみの心を忘れて生きているかもしれません。 今日の福音でイエス様は言われます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである。」「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」イエス様が完成されるものとは、神様の思い、望みがこの世において実現されることです。そしてそれはこの世に愛と憐れみが隅々にまで行きわたることを意味します。 律法の精神を短くまとめるなら、それは神と人を

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2月15日読了時間: 4分
2026年2月8日 年間第5主日
マタイ5:13-16 「あなたがたは地の塩である。世の光である。」イエス様の有名な言葉です。この地の塩である、世の光である言葉でイエス様は何を私たちに呼びかけておられるでしょうか。それを心に留めながらミサを共に捧げましょう。 かつて預言者イザヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚という憂き目から解放されて、祖国に帰ることができ、そこで主の栄光を味わう日が訪れることを預言し、人々を励ましました。そして実際にバビロン捕囚から解放される日が訪れ、人々は喜びにあふれました。しかし人々が期待していた主の栄光に包まれる出来事は起こりませんでした。人々の心はやがて神から離れ、利己主義に走り、形式的な断食や、争いやいさかいが起こりました。なぜ主の栄光の光が輝くことが起こらなかったのでしょうか。それは人々が神に聞き従う生活を送らなかったからだと思われます。 イザヤは言います。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすればあなたの光は曙のように射

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2月8日読了時間: 5分
2026年2月1日 年間第4主日
マタイ5:1-12 今日の福音の場面は、イエス様が群衆の前で初めて説教をなさった場面でいわゆる山上の説教と呼ばれているものです。その説教の中でイエス様は、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々は幸いであると言われます。心の貧しい人々とは、貧しさゆえに神様にしか頼るすべを持たない人々のことで、フランシスコ会訳聖書では「自分の貧しさを知る人」とされ、新共同訳ができる前の共同訳聖書では「ただ神により頼む人」と訳されています。 悲しむ人々、悲しみを抱えている人々、今悲しみの中にある人々。柔和な人々は貧しさや抑圧のゆえにへりくだりと忍耐を生きなければならない人々のことです。義に飢え渇く人々は、不正がはびこる中でその犠牲となり、苦しんでいる人々のことです。イエス様が話された幸いな人々の最初の4つの部分にあてはまる人々は、今苦しみの中にあって耐え忍んでいる人々です。その人々をイエス様は、あなたがたは幸いだと言われます。そして天の国はその人たちのものである、その人たちは慰められる、地を受け継ぐ、満たされると言われます。 ...

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1月31日読了時間: 3分
2026年1月25日 年間第3主日
マタイ4:12-23 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」イエス様は二人の兄弟にそう呼びかけられます。イエス様は私たち一人ひとりにも「わたしについて来なさい」と呼びかけられています。私たちもその呼びかけを大事に受け留め、それに応えることができるよう祈りましょう。 もし、私たちの住む地域が他国によって占領されるような事態が予告されたら、私たちはどのような態度を取るでしょうか。かつて預言者イザヤが活動した時代は、強国アッシリアの支配が北イスラエル領にまで及んでいた時代でした。今日の第一朗読に登場したゼブルンの地、ナフタリの地、そしてガリラヤもアッシリア領に編入されてしまいました。イザヤはこのような状況の中で人々が「栄光を受け」、「大いなる光を見る」ことになると説きます。そしてそれは「ひとりのみどりご」の誕生によってもたらされることを説きます。絶えることのない平和が享受されるのは、人間の知恵や力によってではなく、神への信頼、神のみ言葉への信頼に神が応えてくださるかたちでもたらされます。そして現実に「ひとりのみどりご」が誕生し、そのみど

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1月25日読了時間: 4分
2026年1月18日 年間第2主日
ヨハネ01:29-34 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。ヨハネは自分の方へ近づいて来られるイエス様を見てこう言います。「世の罪を取り除く神の子羊」、この言葉に示されていることは何でしょうか。まず子羊という言葉。子羊は屠られていけにえとして捧げられるために使われる動物でした。そして世の罪を取り除く神の子羊ですから、それはこの世の罪、人間の罪を取り除くために屠られ、いけにえとして捧げられることを意味します。つまり、神の子であるイエス様が私たちの罪を取り除き、償うためにいけにえとして捧げられる子羊になってくださるということです。それがイエス様のお姿であるということです。そしてそれはまさにイエス様が受けてくださった十字架の死を意味します。 私たちはイエス様の十字架の死が私たちの罪を取り除くための死であったことは、知識としては知っています。しかし、現実としてそれがこの自分とどうつながっているのか、イエス様の十字架の死がなぜ自分の罪を取り除くことになるのか、こういうことになると、誰も正確にその真の意味を説明できる人はいないのではないかと思います

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1月18日読了時間: 4分
2026年1月11日 主の洗礼
マタイ3:13-17 今日の福音には4度「星」という表現が現れます。そしてこの星と対峙しているのは夜の闇です。イエス様の誕生が輝く星で示されたのは、人間が生活している場が闇に包まれているからだと思います。人が思うように生きることができていない。いろんな困難の中で力を失い倒れてしまっている人がいる。神様が望まれた、人は本来助け合うために存在していることが十分に機能してはいない。これらのこの世の闇と言える状態は、イエス様が誕生された2千年前も、そして今もその本質は変わっていないと言えます。そのような状態の中で、天の父はご自分の独り子をこの世を照らす光とするために送ることをお決めになられました。イエス様の到来は、希望すべきすべがないところになおも心を向けることができる希望の光が表されることを意味します。 第一の朗読でイザヤの預言が読まれました。この預言者イザヤが告げるのは、今がどんなに失意のもとにあっても、また重い生活がのしかかっていても、必ず主の栄光が到来するということです。預言者イザヤが活躍した時代は、バビロン捕囚も終わり一見世の中は平和が

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1月11日読了時間: 4分
2026年1月4日 主の公現
マタイ02:01-12 今日は主の公現の主日です。そしてこの日東方から博士たちが主を拝みにはるばるやって来た場面が朗読されます。これは諸国のすべての民に神の栄光が示されたことを意味します。イエス様の誕生は限られた一部の人たちのためではなく、全世界のすべての人のためになされた神の救いの業であるということです。 今日の福音には4度「星」という表現が現れます。そしてこの星と対峙しているのは夜の闇です。イエス様の誕生が輝く星で示されたのは、人間が生活している場が闇に包まれているからだと思います。人が思うように生きることができていない。いろんな困難の中で力を失い倒れてしまっている人がいる。神様が望まれた、人は本来助け合うために存在していることが十分に機能してはいない。これらのこの世の闇と言える状態は、イエス様が誕生された2千年前も、そして今もその本質は変わっていないと言えます。そのような状態の中で、天の父はご自分の独り子をこの世を照らす光とするために送ることをお決めになられました。イエス様の到来は、希望すべきすべがないところになおも心を向けることができ

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1月4日読了時間: 4分
2025年12月28日 聖家族
マタイ2:13-15、19-23 今日は聖家族の祝日です。困難の中をマリア様とヨセフ様は幼子のイエス様と一緒に歩まれました。この聖家族の姿は私たちに大きな励ましを与えてくださいます。私たちがいつも聖家族の姿から力をいただくことができるように祈りたいと思います。 イエス様を中心にして聖家族として歩まれたマリア様とヨセフ様。その生活はどのようなものだったでしょうか。それを私たちが想像の目で思い描いてみることも大事だと思います。聖家族はそのほとんどをナザレという小さな町で過ごされました。ヨセフ様は大工の仕事をなさっており、イエス様はごく普通の家庭の中で幼少期を過ごされたのだと思います。聖書の中にはその生活の様子の詳しい記述はありません。でもマリア様は食事を作り、洗濯をされ、小さなイエス様にいろいろなことを教え、生活されていたと思います。 私はある人から一つの絵を見せてもらったことがあります。それはある人が描かれた想像の絵ですが、マリア様が物干し台に洗濯ものを干していて、その側で幼いイエス様が遊んでいる絵です。その方はその絵を小さなカードにし

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2025年12月28日読了時間: 3分
2025年12月21日 待降節第4主日
マタイ01:18-24 神様は救いの働きをなさろうとするとき、必ず人間の応答、人間の協力を求められます。イエス様がこの世に誕生されるにあたって神様が協力を求められたのは、マリア様とヨセフ様でした。 ヨセフ様は、 自分が注目されるとか、高められるとか、そのような思いから遠い方でした。 へりくだりと沈黙のうちに聖家族の保護者としてのご自分の役割を果たされた方です。そのヨセフ様のご保護と守りがあったからマリア様はきびしい条件の中でも安心して神の独り子であるイエス様をお生みになることができたでしょう。 マリア様にはマリア様の、ヨセフ様にはヨセフ様の神様から与えられた役割がありました。そして この二人に天使が告げた共通の言葉は「恐れることはない」という言葉です。「恐れることはない」、それは人間的な思いにとらわれずに、神様の言葉と導きを信じて歩みなさいということです。 マリア様が歩まれた生涯は聖書に目を通せばわかるように、決して平穏無事に終わるものではありませんでした。はじめから最後までなぜこのようなことが起こるのかそう思わざるをえない出来事の連続で

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2025年12月20日読了時間: 4分
2025年12月14日 待降節第3主日
マタイ11:02-11 第一朗読で預言者イザヤが荒れ野や荒れ地、砂漠に向かって「喜び躍れ、・・花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」と呼びかけています。荒れ野、荒れ地、砂漠は草花の生育には適さない場所です。一面に花を咲かせることはふつうは考えられません。なぜ預言者イザヤはこのような言葉を語ったのでしょうか。 預言者イザヤがこの言葉を語った時代は、人々の間に閉塞感が広がっていた時代だったと言えます。この時代は、バビロン捕囚からは解放され、神殿も再建されました。しかし約束されていた栄光は一向に見ることができません。慢性的な干ばつによって収穫は不安定なままですし、ペルシアによる支配もまったく揺らぎそうもない時代でした。そのような中で人々に預言者イザヤは「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる」と呼びかけたということです。救いの実現は、今すぐではないかもしれない。しかし必ず主の栄光と神の輝きを見る時が訪れる。だから雄々しく、恐れることなく忍耐を持って突き進んでいきなさいというメッセージを告げたのです。

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2025年12月14日読了時間: 5分
2025年12月7日 待降節第2主日
マタイ03:01-12 待降節は、英語では「アドベントAdvent」と言います。その意味は「到来」です。待降節第2主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」に私たちも心を向けたいと思います。 私たちは今、主の降誕を迎えるために心の準備をする待降節を過ごしています。その過ごし方として大切なことは、自分の中にある闇、そして私たちが生活しているこの社会の中にある闇を見つめることだと言われます。自分の中にある闇、そしてこの社会の中にある闇を見つめることができる人こそ、そこに光として、救い主として来てくださる神の御子のありがたさがわかるということです。 今日の福音に登場する洗礼者ヨハネは、荒れ野に現れて人々に悔い改めを呼びかけました。洗礼者ヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」洗礼者ヨハネの言葉は厳しく響きます。でもそれは洗礼者ヨハネが私たちに、神の前での

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2025年12月7日読了時間: 4分
2025年11月30日 待降節第1主日
マタイ24:37-44 今日から待降節が始まります。「待降節」という言葉はその字が表しているように「主の降誕を待つ季節」という意味です。そしてクリスマスを迎えるための心の準備をするという意味で祭服の色も紫になります。今年もこの待降節の時を大事にしてよき心の準備ができますように祈りましょう。 教会の典礼は、待降節から新しい1年が始まります。そして教会が教会にとっての1年の最初の主日に選んだ聖書のイエス様の言葉は「目を覚ましていなさい」という言葉です。この「目を覚ましていなさい」とは言葉を言い変えるなら、意識していなさいということです。そして大事なことは、やはり何を意識しているかということです。待降節に入った最初の主日の聖書朗読は、いわゆる救い主の誕生についてはふれていません。それより、「人の子」、すなわちイエス様が再び来られる日、この世の完成の時を待つことが語られています。イエス様は私たちに、終わりの日が必ず来ることを断言され、それがいつであるかわからないから、「目を覚ましていなさい」と言われます。そして、用意している者、常に目覚めている者

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2025年11月30日読了時間: 4分
2025年11月23日 王であるキリスト
ルカ23:35-43 今日私たちは、典礼の1年の締めくくりとして王であるキリストの祭日を祝います。そして福音では十字架に上げられたイエス様の姿が描かれます。このイエス様こそ真の王であることを私たちも高らかに宣言したいです。 人が、司祭として叙階されるとき、その記念として叙階のカードを作る習慣があります。そのカードの表には何か記念になる御絵とか写真を選び、裏には自分が選んだ聖書の言葉を記すことになっています。 私はある時、一人の司祭の叙階式に与ったとき、その方が準備したカードを受け取りました。そしてはっとするものを感じました。その方が準備した叙階のカードの表には、実際に使われた本物の踏み絵のイエス様の写真が使われていました。イエス様が十字架に架けられた姿が銅板に刻まれていて、その上にたくさんの人々の足がのせられたことでしょう。イエス様のお顔も体も擦り切れて、顔はのっぺらぼうのようになり、胴体の部分もすりへっていました。 私はその叙階のカードを受け取ったとき、「ああ、踏み絵か」ぐらいにしか思いませんでした。でも後になって、よくその叙階

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2025年11月22日読了時間: 5分
2025年11月16日 年間第33主日
ルカ21:05-19 教会の典礼の暦も来週の王であるキリストの祭日をもって典礼の暦の1年を締めくくります。この教会の暦を締めくくる時にあたって、イエス様が呼びかけられることを大事に心に留めてミサを捧げたいと思います。 現代という時代でも、今日の福音に述べられるような戦争、暴動、地震、飢饉、疫病など近年世界で現実に起こっている具体的な出来事や災害を直接世の終わりと結びつけて解釈する人たちがいます。しかし私たち人間が世の終わりについて予告したり、明確な形で述べることはできません。またイエス様がおっしゃっていることも決して世の終わりの恐ろしさを強調するものではないのです。私たちが今をどう生きたらよいか、その示唆を与えておられるのです。私たちには復活に与るという希望が神様から与えられています。その希望に向かって歩むためにイエス様は信頼と忍耐の必要を訴えておられるのです。 イエス様がこの世におられた間に一応の完成を見たエルサレム神殿は人々が見とれるほどに立派になりました。しかしそれが完全に崩れ去る日が来るだろうとイエス様は予告されます。そして神

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2025年11月15日読了時間: 4分
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