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カトリック戸塚教会へ
Welcome to Totsuka Catholic Church!
主日ミサ: 土曜日 16:00, 日曜日 10:30
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2026年2月15日 年間第6主日
マタイ5:17-37 第一朗読で読まれた旧約聖書のシラ書は、紀元前2世紀頃に書かれたものです。そしてそのころのイスラエルは、他文化の影響を受け、伝統的な価値観や宗教心が失われる危機を抱えていました。人々は神様よりも人間の経験や知恵、自分たちの判断を重んじるようになっていました。でもイスラエルの民の原点はあくまで主を愛し、契約を守り行うことにありました。主を愛し、その道に従って歩むことが真に求められる生き方でした。現代を生きる私たちも同じかもしれません。現代の文化の影響を受け、物質的、金銭的な富を求め、利己主義になり、慈しみの心を忘れて生きているかもしれません。 今日の福音でイエス様は言われます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである。」「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」イエス様が完成されるものとは、神様の思い、望みがこの世において実現されることです。そしてそれはこの世に愛と憐れみが隅々にまで行きわたることを意味します。 律法の精神を短くまとめるなら、それは神と人を

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1 日前読了時間: 4分
2026年2月8日 年間第5主日
マタイ5:13-16 「あなたがたは地の塩である。世の光である。」イエス様の有名な言葉です。この地の塩である、世の光である言葉でイエス様は何を私たちに呼びかけておられるでしょうか。それを心に留めながらミサを共に捧げましょう。 かつて預言者イザヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚という憂き目から解放されて、祖国に帰ることができ、そこで主の栄光を味わう日が訪れることを預言し、人々を励ましました。そして実際にバビロン捕囚から解放される日が訪れ、人々は喜びにあふれました。しかし人々が期待していた主の栄光に包まれる出来事は起こりませんでした。人々の心はやがて神から離れ、利己主義に走り、形式的な断食や、争いやいさかいが起こりました。なぜ主の栄光の光が輝くことが起こらなかったのでしょうか。それは人々が神に聞き従う生活を送らなかったからだと思われます。 イザヤは言います。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすればあなたの光は曙のように射

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2月8日読了時間: 5分
2026年2月1日 年間第4主日
マタイ5:1-12 今日の福音の場面は、イエス様が群衆の前で初めて説教をなさった場面でいわゆる山上の説教と呼ばれているものです。その説教の中でイエス様は、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々は幸いであると言われます。心の貧しい人々とは、貧しさゆえに神様にしか頼るすべを持たない人々のことで、フランシスコ会訳聖書では「自分の貧しさを知る人」とされ、新共同訳ができる前の共同訳聖書では「ただ神により頼む人」と訳されています。 悲しむ人々、悲しみを抱えている人々、今悲しみの中にある人々。柔和な人々は貧しさや抑圧のゆえにへりくだりと忍耐を生きなければならない人々のことです。義に飢え渇く人々は、不正がはびこる中でその犠牲となり、苦しんでいる人々のことです。イエス様が話された幸いな人々の最初の4つの部分にあてはまる人々は、今苦しみの中にあって耐え忍んでいる人々です。その人々をイエス様は、あなたがたは幸いだと言われます。そして天の国はその人たちのものである、その人たちは慰められる、地を受け継ぐ、満たされると言われます。 ...

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1月31日読了時間: 3分
2026年1月25日 年間第3主日
マタイ4:12-23 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」イエス様は二人の兄弟にそう呼びかけられます。イエス様は私たち一人ひとりにも「わたしについて来なさい」と呼びかけられています。私たちもその呼びかけを大事に受け留め、それに応えることができるよう祈りましょう。 もし、私たちの住む地域が他国によって占領されるような事態が予告されたら、私たちはどのような態度を取るでしょうか。かつて預言者イザヤが活動した時代は、強国アッシリアの支配が北イスラエル領にまで及んでいた時代でした。今日の第一朗読に登場したゼブルンの地、ナフタリの地、そしてガリラヤもアッシリア領に編入されてしまいました。イザヤはこのような状況の中で人々が「栄光を受け」、「大いなる光を見る」ことになると説きます。そしてそれは「ひとりのみどりご」の誕生によってもたらされることを説きます。絶えることのない平和が享受されるのは、人間の知恵や力によってではなく、神への信頼、神のみ言葉への信頼に神が応えてくださるかたちでもたらされます。そして現実に「ひとりのみどりご」が誕生し、そのみど

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1月25日読了時間: 4分
2026年1月18日 年間第2主日
ヨハネ01:29-34 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。ヨハネは自分の方へ近づいて来られるイエス様を見てこう言います。「世の罪を取り除く神の子羊」、この言葉に示されていることは何でしょうか。まず子羊という言葉。子羊は屠られていけにえとして捧げられるために使われる動物でした。そして世の罪を取り除く神の子羊ですから、それはこの世の罪、人間の罪を取り除くために屠られ、いけにえとして捧げられることを意味します。つまり、神の子であるイエス様が私たちの罪を取り除き、償うためにいけにえとして捧げられる子羊になってくださるということです。それがイエス様のお姿であるということです。そしてそれはまさにイエス様が受けてくださった十字架の死を意味します。 私たちはイエス様の十字架の死が私たちの罪を取り除くための死であったことは、知識としては知っています。しかし、現実としてそれがこの自分とどうつながっているのか、イエス様の十字架の死がなぜ自分の罪を取り除くことになるのか、こういうことになると、誰も正確にその真の意味を説明できる人はいないのではないかと思います

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1月18日読了時間: 4分
2026年1月11日 主の洗礼
マタイ3:13-17 今日の福音には4度「星」という表現が現れます。そしてこの星と対峙しているのは夜の闇です。イエス様の誕生が輝く星で示されたのは、人間が生活している場が闇に包まれているからだと思います。人が思うように生きることができていない。いろんな困難の中で力を失い倒れてしまっている人がいる。神様が望まれた、人は本来助け合うために存在していることが十分に機能してはいない。これらのこの世の闇と言える状態は、イエス様が誕生された2千年前も、そして今もその本質は変わっていないと言えます。そのような状態の中で、天の父はご自分の独り子をこの世を照らす光とするために送ることをお決めになられました。イエス様の到来は、希望すべきすべがないところになおも心を向けることができる希望の光が表されることを意味します。 第一の朗読でイザヤの預言が読まれました。この預言者イザヤが告げるのは、今がどんなに失意のもとにあっても、また重い生活がのしかかっていても、必ず主の栄光が到来するということです。預言者イザヤが活躍した時代は、バビロン捕囚も終わり一見世の中は平和が

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1月11日読了時間: 4分
2026年1月4日 主の公現
マタイ02:01-12 今日は主の公現の主日です。そしてこの日東方から博士たちが主を拝みにはるばるやって来た場面が朗読されます。これは諸国のすべての民に神の栄光が示されたことを意味します。イエス様の誕生は限られた一部の人たちのためではなく、全世界のすべての人のためになされた神の救いの業であるということです。 今日の福音には4度「星」という表現が現れます。そしてこの星と対峙しているのは夜の闇です。イエス様の誕生が輝く星で示されたのは、人間が生活している場が闇に包まれているからだと思います。人が思うように生きることができていない。いろんな困難の中で力を失い倒れてしまっている人がいる。神様が望まれた、人は本来助け合うために存在していることが十分に機能してはいない。これらのこの世の闇と言える状態は、イエス様が誕生された2千年前も、そして今もその本質は変わっていないと言えます。そのような状態の中で、天の父はご自分の独り子をこの世を照らす光とするために送ることをお決めになられました。イエス様の到来は、希望すべきすべがないところになおも心を向けることができ

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1月4日読了時間: 4分
2025年12月28日 聖家族
マタイ2:13-15、19-23 今日は聖家族の祝日です。困難の中をマリア様とヨセフ様は幼子のイエス様と一緒に歩まれました。この聖家族の姿は私たちに大きな励ましを与えてくださいます。私たちがいつも聖家族の姿から力をいただくことができるように祈りたいと思います。 イエス様を中心にして聖家族として歩まれたマリア様とヨセフ様。その生活はどのようなものだったでしょうか。それを私たちが想像の目で思い描いてみることも大事だと思います。聖家族はそのほとんどをナザレという小さな町で過ごされました。ヨセフ様は大工の仕事をなさっており、イエス様はごく普通の家庭の中で幼少期を過ごされたのだと思います。聖書の中にはその生活の様子の詳しい記述はありません。でもマリア様は食事を作り、洗濯をされ、小さなイエス様にいろいろなことを教え、生活されていたと思います。 私はある人から一つの絵を見せてもらったことがあります。それはある人が描かれた想像の絵ですが、マリア様が物干し台に洗濯ものを干していて、その側で幼いイエス様が遊んでいる絵です。その方はその絵を小さなカードにし

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2025年12月28日読了時間: 3分
2025年12月21日 待降節第4主日
マタイ01:18-24 神様は救いの働きをなさろうとするとき、必ず人間の応答、人間の協力を求められます。イエス様がこの世に誕生されるにあたって神様が協力を求められたのは、マリア様とヨセフ様でした。 ヨセフ様は、 自分が注目されるとか、高められるとか、そのような思いから遠い方でした。 へりくだりと沈黙のうちに聖家族の保護者としてのご自分の役割を果たされた方です。そのヨセフ様のご保護と守りがあったからマリア様はきびしい条件の中でも安心して神の独り子であるイエス様をお生みになることができたでしょう。 マリア様にはマリア様の、ヨセフ様にはヨセフ様の神様から与えられた役割がありました。そして この二人に天使が告げた共通の言葉は「恐れることはない」という言葉です。「恐れることはない」、それは人間的な思いにとらわれずに、神様の言葉と導きを信じて歩みなさいということです。 マリア様が歩まれた生涯は聖書に目を通せばわかるように、決して平穏無事に終わるものではありませんでした。はじめから最後までなぜこのようなことが起こるのかそう思わざるをえない出来事の連続で

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2025年12月20日読了時間: 4分
2025年12月14日 待降節第3主日
マタイ11:02-11 第一朗読で預言者イザヤが荒れ野や荒れ地、砂漠に向かって「喜び躍れ、・・花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」と呼びかけています。荒れ野、荒れ地、砂漠は草花の生育には適さない場所です。一面に花を咲かせることはふつうは考えられません。なぜ預言者イザヤはこのような言葉を語ったのでしょうか。 預言者イザヤがこの言葉を語った時代は、人々の間に閉塞感が広がっていた時代だったと言えます。この時代は、バビロン捕囚からは解放され、神殿も再建されました。しかし約束されていた栄光は一向に見ることができません。慢性的な干ばつによって収穫は不安定なままですし、ペルシアによる支配もまったく揺らぎそうもない時代でした。そのような中で人々に預言者イザヤは「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる」と呼びかけたということです。救いの実現は、今すぐではないかもしれない。しかし必ず主の栄光と神の輝きを見る時が訪れる。だから雄々しく、恐れることなく忍耐を持って突き進んでいきなさいというメッセージを告げたのです。

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2025年12月14日読了時間: 5分
2025年12月7日 待降節第2主日
マタイ03:01-12 待降節は、英語では「アドベントAdvent」と言います。その意味は「到来」です。待降節第2主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」に私たちも心を向けたいと思います。 私たちは今、主の降誕を迎えるために心の準備をする待降節を過ごしています。その過ごし方として大切なことは、自分の中にある闇、そして私たちが生活しているこの社会の中にある闇を見つめることだと言われます。自分の中にある闇、そしてこの社会の中にある闇を見つめることができる人こそ、そこに光として、救い主として来てくださる神の御子のありがたさがわかるということです。 今日の福音に登場する洗礼者ヨハネは、荒れ野に現れて人々に悔い改めを呼びかけました。洗礼者ヨハネは言います。「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」洗礼者ヨハネの言葉は厳しく響きます。でもそれは洗礼者ヨハネが私たちに、神の前での

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2025年12月7日読了時間: 4分
2025年11月30日 待降節第1主日
マタイ24:37-44 今日から待降節が始まります。「待降節」という言葉はその字が表しているように「主の降誕を待つ季節」という意味です。そしてクリスマスを迎えるための心の準備をするという意味で祭服の色も紫になります。今年もこの待降節の時を大事にしてよき心の準備ができますように祈りましょう。 教会の典礼は、待降節から新しい1年が始まります。そして教会が教会にとっての1年の最初の主日に選んだ聖書のイエス様の言葉は「目を覚ましていなさい」という言葉です。この「目を覚ましていなさい」とは言葉を言い変えるなら、意識していなさいということです。そして大事なことは、やはり何を意識しているかということです。待降節に入った最初の主日の聖書朗読は、いわゆる救い主の誕生についてはふれていません。それより、「人の子」、すなわちイエス様が再び来られる日、この世の完成の時を待つことが語られています。イエス様は私たちに、終わりの日が必ず来ることを断言され、それがいつであるかわからないから、「目を覚ましていなさい」と言われます。そして、用意している者、常に目覚めている者

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2025年11月30日読了時間: 4分
2025年11月23日 王であるキリスト
ルカ23:35-43 今日私たちは、典礼の1年の締めくくりとして王であるキリストの祭日を祝います。そして福音では十字架に上げられたイエス様の姿が描かれます。このイエス様こそ真の王であることを私たちも高らかに宣言したいです。 人が、司祭として叙階されるとき、その記念として叙階のカードを作る習慣があります。そのカードの表には何か記念になる御絵とか写真を選び、裏には自分が選んだ聖書の言葉を記すことになっています。 私はある時、一人の司祭の叙階式に与ったとき、その方が準備したカードを受け取りました。そしてはっとするものを感じました。その方が準備した叙階のカードの表には、実際に使われた本物の踏み絵のイエス様の写真が使われていました。イエス様が十字架に架けられた姿が銅板に刻まれていて、その上にたくさんの人々の足がのせられたことでしょう。イエス様のお顔も体も擦り切れて、顔はのっぺらぼうのようになり、胴体の部分もすりへっていました。 私はその叙階のカードを受け取ったとき、「ああ、踏み絵か」ぐらいにしか思いませんでした。でも後になって、よくその叙階

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2025年11月22日読了時間: 5分
2025年11月16日 年間第33主日
ルカ21:05-19 教会の典礼の暦も来週の王であるキリストの祭日をもって典礼の暦の1年を締めくくります。この教会の暦を締めくくる時にあたって、イエス様が呼びかけられることを大事に心に留めてミサを捧げたいと思います。 現代という時代でも、今日の福音に述べられるような戦争、暴動、地震、飢饉、疫病など近年世界で現実に起こっている具体的な出来事や災害を直接世の終わりと結びつけて解釈する人たちがいます。しかし私たち人間が世の終わりについて予告したり、明確な形で述べることはできません。またイエス様がおっしゃっていることも決して世の終わりの恐ろしさを強調するものではないのです。私たちが今をどう生きたらよいか、その示唆を与えておられるのです。私たちには復活に与るという希望が神様から与えられています。その希望に向かって歩むためにイエス様は信頼と忍耐の必要を訴えておられるのです。 イエス様がこの世におられた間に一応の完成を見たエルサレム神殿は人々が見とれるほどに立派になりました。しかしそれが完全に崩れ去る日が来るだろうとイエス様は予告されます。そして神

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2025年11月15日読了時間: 4分
2025年11月9日 ラテラノ教会の献堂
ヨハネ02:13-22 今日はローマのラテラノに建てられ、ローマと世界のすべての教会の母と呼ばれたラテラノ教会の献堂の祝日にあたります。この祝日に全世界の教会が心を合わせて、神様から委ねられている教会の果たす役割に心を向けることができますように祈りたいです。 教会の役割って何かなと思います。教会、それは目に見えない神様との出会いの場であると言えます。一人ひとりが目に見えない神様と出会っていく場。それが教会であるということです。 今日の福音でイエス様は、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われます。羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒されながら言われました。たぶん福音書の中で他に見られないほどのイエス様の熱く力のこもった言葉だったと思います。なぜイエス様はこれほどまでして神殿を清めようとされたのでしょうか。そこにはイエス様が示される真の神殿、真の神の家のあるべき姿への熱い思いが示されているからだと思います。 人々は習慣として動物のいけにえを捧げ、神様に祈りを

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2025年11月7日読了時間: 4分
2025年11月2日 死者の日ミサ
私は司祭になってよかったなと思うことの一つは、人の死に向き合うことができるということです。私は司祭になって今まで何人の方々をお見送りしてきたのかなと思うことがあります。正確に数えたことはありません。でもたくさんの方々の葬儀をさせていただいてきたことも事実です。そしていつも葬儀を終えた時、自分の心の中に残る思いは、この葬儀に関わることができて本当によかった、ありがたかったという思いです。祈りを共にできてよかった、お見送りを一緒にさせていただいてよかった。疲れは残りますが、疲れを超えて心が満たされる思いを何度もしたことがあります。 ある方とは、死が近いという状態の中でお話をさせていただいたこともあります。死という私たちにとって大きな現実に対して、どう向きあったらいいか。私たちは死を前にするとき、自分の小ささ、無力さを実感します。でもそれはとても大切な気づきなのだと思います。その無力さの中で、心からイエス様の存在を求める。イエス様にどうかこの私と共にいてください、私の側にいてくださいと願い祈る。その祈りがとても大事です。 私がよく思うことですが

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2025年11月1日読了時間: 4分
2025年10月26日 年間第30主日
ルカ18:09-14 今日の福音で「自ら正しい人間である」と自分を誇ったファリサイ派の人が神様から退けられ、逆に自分の罪深さを素直に認めて神様に憐れみを求めた徴税人が義とされます。ファリサイ派の人は自分でも語っているように、律法という掟の面では非の打ちどころのない生活を送っていたでしょう。しかし神様はその「自ら正しい人間である」と誇ったファリサイ派の人を退けられます。 なぜそうなってしまったのか。そこにはいくつかの理由が考えられます。その一つは、彼が遠くに立って祈っている徴税人を指して私が「この徴税人のような者でないことを感謝します」と祈ったことにあります。もし彼が「私のことは構いませんから、先にあの徴税人を顧みてあげてください」と祈っていたら、違う結論になっていたでしょう。このファリサイ派の人の過ちは、自分が他の人たちのようなものではないことを感謝しますという他の人と比べて自分の正しさを誇るその心の態度でした。 ファリサイ派の人が神様から退けられたもう一つの理由は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と、自分の

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2025年10月26日読了時間: 4分
2025年10月19日 年間第29主日
ルカ18:1-8 イエス様は、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、今日の福音のたとえ話を話されました。ここでのイエス様が求めておられる絶えず祈る祈りとはどのような祈りでしょうか。 私たちはふつう祈りと聞くと何かを願うことだととらえがちです。また祈りでなくても、教会に来ることを考えるとき、多くの人が教会を訪れるのは、やはり自分の願いを神様に聞いていただきたいというのが一番大きい理由だと思います。でもその神様に向ける祈りを単なるお願いで終わってしまっていいのだろうかと考えます。イエス様が私たちに求めておられる、イエス様が望まれる祈りというものがあるのではないでしょうか。 イエス様が望まれる祈り、それは私たちがもっとイエス様の思い、望みに耳を傾けていくことです。自分の思い、望みをイエス様に伝えるだけで終わるのでなく、私たちもイエス様の望みを聞いていく姿勢を大事にすることです。イエス様が今、私たちにどのような望みを持っておられるか、そのことを意識していくことです。今、私たちが置かれている状況、そして世界中の人々が置かれ

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2025年10月18日読了時間: 4分
2025年10月12日 年間第28主日
ルカ17:11-19 重い皮膚病を患っていた10人の人がイエス様によって清められます。重い皮膚病は特に苦しみが大きいものです。私は以前、修練者だった時、静岡県御殿場にある神山復生病院で、1ヶ月の実習をさせていただいたことがあります。そこで療養されている人々との出会いの中...

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2025年10月12日読了時間: 4分
2025年10月5日 年間第27主日
ルカ17:5-10 イエス様は畑で働く僕が仕事を終えて帰ってきた後、その僕が自分を雇ってくれている主人の夕食の準備をすることを話されます。畑で仕事をして疲れて帰ってきて、さらに続けて主人の夕食の準備を僕がすることは、きっと重労働だったでしょう。でもイエス様は、僕は自分に...

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2025年10月4日読了時間: 4分
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