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2024年3月17日

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四旬節第5主日
ヨハネ(12:20-33)

戸塚・原宿小教区管理者
​田丸 篤神父

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」これはヘブライ人への手紙の中の一節です。イエス様が受けられた苦しみが書き記されています。同時にイエス様がこの苦しみを受けてくださったことによって、私たちの救いの源になってくださいます。言葉を変えて言えば、私たちはこのイエス様の救いの業なしに救われることはないということです。人間は自力で救いの道を歩むことはできません。イエス様を信じつながることなしに救いはないのです。私たちは心のどこかでやはりそのことに触れていないといけないのだと思います。

 

イエス様は言われます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば。多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」私は、ここに神様の思いが集約されて示されていると思います。神様はこのように考えておられる。私たちが生きるべき歩むべきあり方はこうなのだと示されています。誰も自分に死ぬことを積極的に受け入れる人はいないでしょう。逆に自分が認められ、評価され、活かされる生き方を望むでしょう。でも神様のお考えはそうではないのです。私たちはこのことも心のどこかで受け止めていないといけないと思います。

 

世の中には、自分を捨てて自分が死んでしまったら、自分には何も残らないではないか。そして自分をあけ渡してしまったら、自分が無くなってしまい、そうなれば自分が存在する意味がない。そう感じる人が多いかもしれません。あくまで自分を大事にするとらえ方です。しかし、イエス様の呼びかけは、私たちが自分に死ぬ生き方をすることで、逆に自分が解放され、真の自由を生きることができる。なぜならその自分の中に神様が働かれるからだということです。そしてその神様の働き、神様の力は計り知れない。私たち人間の力、働きをはるかに超えておられ、すばらしいということです。自分に固執せず、自分に死ぬことを通して神様の業が行われる。そして多くの実を結ぶ。このような真理を私たちが大事に受け止め心に刻み、それを実践していくことができるように祈りたいです。

 

今年の四旬節も来週の日曜日は、枝の主日を迎え聖週間が始まります。そしてその次の日曜日は復活の主日です。今年も、もうそのような時に来ています。来週の日曜日から始まる聖週間。それはイエス様が最後どのように茨の苦しい十字架の道を歩まれたか、そのお姿に目を向けます。イエス様がその身に受けてくださった苦しみは、すべて私たちを救うための苦しみでした。そしてイエス様はその十字架の死を復活の栄光につながらせてくださいました。私たちも人生を歩む中でたくさんの十字架に出会います。その中で力を失い倒れてしまうこともあります。それでも十字架を担ってくださったイエス様がいつも私たちの側にいてくださり、共に歩んでくださっていることを思って、イエス様にしっかりつながってこの人生を歩んでいきたいです。

 

自分に死んで、人の喜びのために自分を捧げていく生き方が、必ず多くの実を結ぶこと。

イエス様が教えてくださった生き方はそのような生き方です。私たちもいつかこの世を旅立って、神様の元へ招かれる時が必ず来るでしょう。その時イエス様が教えてくださった生き方が本当に大事な生き方であったことを知るでしょう。今、生きる時間を与えられている私たちが、もう一度イエス様に心を向け、イエス様が教えてくださった一粒の麦の生き方を自分のものにできるように祈りたいです。そして残り少なくなった今年の四旬節の日々を大切に過ごしていきたいです。

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