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2024年11月10日

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年間第32主日
マルコ(12:38-44)

戸塚・原宿小教区管理者
​田丸 篤神父

私たちが行う献金って何のために行っているのかなと時々思います。献金は、皆でお金を集めて、そのお金を必要とされていることのために使うもののことです。そして献金をする時、大事なことは、献金するお金の多さでしょうか。それとも献金をする時の自分の心でしょうか。必要とされていることのために使うのだから、お金は少ないよりは多い方がよいはずだ。その方がいろいろなことに使うことができてよい。でも献金をする時の自分の気持ち、心も大事ではないかな、皆さんもそう思われると思います。

 

イエス様は神殿に置かれた賽銭箱に人々がお金を入れる様子をご覧になっていました。その中で貧しいやもめが、レプトン銅貨2枚を入れました。それは本当にわずかのお金でした。しかし、それがこのやもめの生活費全部だったということです。イエス様はこのやもめをご覧になって「この貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」と言われました。イエス様が言われる「たくさん」とはお金の額のことではなく、心のことです。彼女は自分が差し出せる精一杯の心を捧げたということです。そしてそれは、彼女の生活全部が神様に向けられていたということを意味していました。

 

彼女は貧しいやもめとして、誰にも頼ることができなかったかもしれません。そのような状態の中で、神様だけが彼女の支えだったでしょう。生活は貧しくても、また貧しさの中で生きているからこそ、逆にまっすぐに心を神様に向けて、生活の土台を神様に置いて歩むことができていたということでしょう。人の心の幸せは、人間が使うものさしでは計れないと思います。その人の神様とのつながりの強さによって計られるものではないでしょうか。貧しいやもめは、乏しい中から自分の持っている物をすべて入れました。これはこのやもめが神様を第一にし、そこに絶対の信頼を置いて生きている姿を物語っているということです。大事なことは、自分は何に一番の信頼を置いて生きているかということでしょう。

 

イエス様がこの世に来て、お伝えになられた一番のことは、イエス様の父であり、私たちの父である方が、どれほど憐れみに満ちていつくしみ深い方でいてくださるかということです。だから喜びなさい。安心してその方に心を向けなさい。そしてその方に向かってまっすぐ歩んで生きなさいとイエス様は呼びかけられたのです。その父なる神様が私たちに求めておられるのは、私たちの心のあり方、心の態度です。神様はその私たちの心に計り知れない恵みで応えてくださいます。

 

第一朗読で読まれた旧約聖書の列王記(上17:10-16)に興味深い出来事が記されていました。ひとりのやもめのところに預言者エリヤが現れ、水を飲ませてくださいと頼みます。やもめが取りに行こうとすると、エリヤは「パンも一切れ、手に持って来てください。」と言います。やもめは「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と答えます。エリヤはそれを聞いて「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の表に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉どおりにしました。すると主がエリヤによって告げられたお言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなりませんでした。

 

この出来事が伝えていることは何でしょうか。神様への信頼が、自分の思いを越えた大きな恵みに出会うことができた。私たちの身近な出来事の中にもそのような体験がないでしょうか。神様への大きな信頼、神様に自分を明け渡していく中で、逆に大きな恵みをいただいた体験。

これは私の体験ですが、私が司祭への道に進もうと決めたのは大学生の時でした。不思議な神様の呼びかけとその時のよき教会の仲間の支えのおかげでこの道を歩み始めました。それを決める時、たくさんの反対や困難がありました。それでも私はこの不思議な呼びかけ、自分の心の中で感じるうながしのようなものに応えようと決めました。これから先、何が自分に待っているかわからない。それでもこの道を歩むように望んでくださっているその神様に全てを委ねよう、自分ができる精一杯のことを捧げようと思いました。

 

自分が神様に捧げたものが大きかったか小さかったかは、神様がお決めになることでしょう。それでも神様が喜んでくださるものは、捧げたもの自体よりも、捧げようとしたときの自分の心の中のことでしょう。神様は神様を信じて、自分を委ねて、そして自分が捧げられる精一杯のものを捧げてくれる人々を待ち望んでおられます。神様が喜んでくださる捧げものをする。そのような人生を送る。それが私たちにとって一番大切なことじゃないかなとそう信じます。

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