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2025年6月22日 キリストの聖体の主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2025年6月22日
  • 読了時間: 5分

ルカ09:11-17

 

皆さんは聖堂の中心は何であると思われますか。答えは祭壇です。聖堂の中心である祭壇を私たちが囲み、皆が一つになる。これはイエス様が願われたことです。そしてイエス様が残された御聖体もそのことを表しています。イエス様が願われたことは、皆が一つのパンを食べ、同じ一つのパンを食べる者として互いが一つになるということ、そしてパンとしてとどまってくださるイエス様と互いに深く結ばれるということです。

 

イエス様はご自分の死が迫るぎりぎりの状況の中で弟子たちと最後の晩餐をなさいました。そしてその席で、食卓にあったパンとぶどう酒に向かって、「これはわたしの体である。これはわたしの血である」とおっしゃいました。ふつうでは考えられない、パンとぶどう酒がイエス様の体と血になるということ。でもイエス様ははっきりとそうおっしゃり、「これをわたしの記念として行いなさい」と言われたのです。そして教会はそのことを忠実に2千年という時間を経ても変えることなく今も続けています。

 

イエス様はどのような思いで、この御聖体の制定をなさったのでしょうか。イエス様もきっと、許されるならもっと弟子たちと共に過ごしたい、まだまだ伝えたいことはたくさんある。でも今はもう時間がない。そのようなぎりぎりの状況の中で食卓の上にあった食べるためのパンとぶどう酒に向かって「これはわたしの体である。これはわたしの血である」と言われたのだと思います。パンとぶどう酒の中に御自分のいのちを注ぐ。そうすることで、これから弟子たちがこの晩餐の祭儀を繰り返す時、彼らに御自分のいのちを与えることができる。そのように思われての御聖体の制定だったと思います。私たちの肉眼の目では、ただのパンとぶどう酒にしか見えないもの。でもそれを信じる心をもって私たちが受けとめる時、それは真のイエス様の体と血になるということです。そして忘れていけないのは、イエス様が言われる「このパンを食べる」とは、イエス様の心を生きるということでもあります。私たちが普段いただくこの御聖体の中に共にいてくださるイエス様の思いを心で感じ、イエス様の心に応えていくことができるように、同じ祭壇を共に囲む私たちがイエス様を囲む一つの輪、一つの共同体になっていけますように祈りたいです。

 

今日の福音の場面は、イエス様が5千人の人々にパンを与えられた場面です。イエス様は神の国、神様の恵みについて話しておられました。人々はその話に聞き入っていたと思います。しかし一方で人間の生活には実際に食べること、そして休むための場所が必要です。それが気になる12人の弟子たちはイエス様の話を中断して、そこに集まった人々を解散させようとします。なぜならここは人里離れた場所であり、人々の生活の場ではないからです。しかしイエス様の弟子たちへの指示は、人々を解散させることではありませんでした。そして逆にあなたがたが人々に食べ物を与えなさいと指示されます。しかし12人の弟子たちは、ここは人里離れた場所であること、そして自分たちの手元には5つのパンと2匹の魚しかないのだから到底不可能だと訴えます。5つのパンと2匹の魚でどうやってこれだけの人々を食べさせることができるだろうか。これは弟子たちの正直な思いだったでしょう。5つのパンと2匹の魚しか持ち合わせていなかった弟子たちは、「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」とイエス様から言われたとき、どうすればよいか途方に暮れたにちがいありません。しかし5つのパンと2匹の魚という貧しい現実をイエス様に委ね、再びイエス様から受け取ったとき、受けた恵みを次々と人々に運ぶ者になります。そしてその配られた神様からの恵みは尽きることがありませんでした。人間である私たちが恵みを作り出すのではなく、自分の貧しい現実をイエス様に精一杯委ね、そしてそれを再び受け取るなら、この弱い小さな自分が神様の恵みの分配者になれるということ、それを今日の福音の場面が表しています。

 

今日の場面で私たちが学ぶべきことを整理してみるなら、日常生活の中で途方に暮れることがあっても、イエス様にお委ねしてみようと思うこと。イエス様は恵みをもたらす前に、天を仰いでまず天の父に祈られたこと。そして私たちの役割は、限られた小さなものを神様に差し出し、それを神様から再び受け直してその与えていただいたもの、恵みの運び手になること。弟子たちのように日常の世界だけに目を向けないこと。神様がお考えになる恵みの世界があること。その神様の恵みをもたらす者として私たちは招かれていること。イエス様が実際に弟子たちにパンと魚を人々に運ぶようにさせられたように、日常生活の中で神様の恵みの運び手に私たちがなっていくということ。このような生き方こそ私たちが神様から招かれた生き方ではないかと思います。

 

現代を生きる私たちにとって何が神様の恵みなのか、それは一人ひとり祈りのうちに見つめないといけないでしょう。そして神様の恵みは、何か問題、苦しみが無くなるということより、いろんな困難を経験しても、その中で自分が活かされていることを経験していく中で味わう恵みなのだと思います。時々道が見えなくなってしまう私たちにとって今日の福音が語るメッセージは大きな光なのだと思います。

 

 

 

 
 
 

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