ようこそ
カトリック戸塚教会へ
Welcome to Totsuka Catholic Church!
主日ミサ: 土曜日 16:00, 日曜日 10:00
平日ミサ: 火曜日~木曜日 9:30
金曜日 10:00
SUNDAY MASSES:
Saturday 4:00PM, Sunday 10:00AM
WEEKDAY MASSES:
Tuesday to Thursday 9:30AM
Friday 10:00AM
12/24(火)19時 クリスマス夜半ミサ
12/25(水)10時 クリスマス日中ミサ
今日は祖父母と高齢者のための世界祈願日です。そして日本では今年は9月16日が敬老のお祝いの日です。私は、人生の歩みにおいて年齢を重ねるということは生易しいことではないと感じます。いろんな体の不具合を味わい、生きていく上でのしかかる様々な問題を背負って歩むことも求められます。そして神様が守ってくださるから何の問題もなく、困難がなくなるということでもないと思います。でも後からわかります。神様が共にいてくださったこと。見えないかたちでこの自分を支え、守っていてくださったことを。
今日の福音にイエス様からの大切な言葉があります。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とても重みのある言葉です。自分を捨て、自分の十字架を背負って、従っていくこと。どうしたらそのような生き方ができるでしょうか。私はやはり自分の心の中に深い確信のようなものがあって初めてできると思います。第一朗読のイザヤの言葉にあるように、苦しむ僕が苦難に耐えられるのは、彼の正しさを認める方が近くにいて、助けてくださると知っているからです。今日の第一朗読で読まれたイザヤの言葉をここでもう一度朗読させてください。
「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている。わたしが辱められることはないと。わたしの正しさを認める方は近くいます。」(イザヤ5:5-9)
苦難を受け入れる力は、神様への信仰と信頼から生じます。どんなに苦しくても、どんなに困難があっても、神様はおられるという確信。そして私たちが精一杯生きる中で、神様は必ず御自身の業を行ってくださるという確信です。
今日の答唱詩編の言葉は、すばらしい信仰告白だと思います。「わたしは神を愛する。神はわたしの声を聞き、日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。死とその苦しみが迫り、苦悩の中にあったとき、わたしは神の名を叫んだ。「神よ、わたしを助けてください。神は恵みといつしみに満ち、わたしたちの神はあわれみ深い。神は素朴な人の支え、神は恵みを注いでくださった。神はわたしを死から救い、足がつまずかないように支えらえた。わたしは神の前を歩む、神に生きる人々の中で。」(詩編116)
自分の歩みの中に苦しみがあっても、神様のことを忘れない生き方。神様のよさとその業を信じ続ける信仰。そのような深い信仰を持ちたいです。苦しみのただ中にあっても、また逆に苦しい時だからこそ、神様の望まれる主のみ心に従い続けたいという思いを起こしたいです。なぜなら、苦しみの中で主のみ心に従い続けることこそ、真に主を愛することになるからです。人を愛するとは、やはりその人のために苦しむことでもあります。そして主を愛するとは、主のために苦しむことであるということです。
私たちの毎日の生活の中で、主を愛するために、主のために苦しむ生き方ができたらと思います。それは毎日の中に生じる小さな自己犠牲を捧げ続けていくことでしょう。でも、それがイエス様が言われる自分を捨てることになり、それを通して私たちの真の命を救うことになります。
神様の思いに忠実であろうとすればするほどこの世で苦しみを受けるという現実。神様に従っていてなぜ苦しみがあるのか。それはキリスト者だからといって明確な答えが与えられているわけではありません。しかし私たちは、神様が単に私たちの苦しみを望む方ではないことを信じます。私たち人間の方からはその意味がすぐには理解できないような中でも、神様が大切にされること、生き方を大事にし続ける。神様に心を向けて生活し続ける。その時私たちは、単に報いを求める生き方ではなく、神様に捧げるべき真の生き方、純粋に神様のみ心を求める生き方、それを神様に捧げるようになります。
こうしてミサに与っているのも、ただ自分の願いを捧げることよりも、神様を大切にしたい、だからミサに与っているという思いを強く持ちたいです。私たちは苦しみの体験を通して私たちが捧げる祈りの意向が清められるのかもしれません。利己心が清められ、自分中心の思いではなく、神様に全てを委ねる祈りを捧げるようになる。その祈りを神様は救いの道具として用いてくださいます。神様は必ず私たちが捧げる様々な困難、苦しみを神様が望まれる新しい世界、神の国の建設のために役立たせてくださいます。神様につながる上で味わう苦しみだったら恐れる必要はありません。神様はそれを大きな祝福に変えてくださるでしょう。十字架なしの救いはありません。私たちはそのことを信じて歩みたいです。きっと神様は、私たちのその思いに応えてくださることを信じます。