2025年6月29日 聖ペトロ聖パウロ使徒
- カトリック戸塚教会
- 7 日前
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マタイ16:13-19
最近よく思うことがあります。それは神の独り子であるイエス様の存在を現代に生きている私たちがどのように感じ取っていったらよいかということです。ある人にとっては、イエス様の存在は2千年前のことであり、イエス様の存在を信じてはいても、現代という時代で直接イエス様の存在を感じ取ることはできないと感じる人は多いと思います。教会に来ても、ミサに参加しても、そのことが直接イエス様とふれあうことにつながっていかない状態。イエス様の存在をどこか遠い存在と思えてしまう。そのように感じている人は結構多いのではないでしょうか。
世の中には本当の救いを求めている人は多いです。でもそれが直接に神様、そして神の子であり私たちの真の救い主であるイエス様にふれていくことができない人が多いということも事実です。この現実を見つめながら、今日の福音の中のイエス様の言葉、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いに、私たちはどう答えたらよいでしょうか。ただ口で「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白するだけで終わらない、何か心の奥深い所からわきあがってくる信仰の告白ができないでしょうか。
自分としてイエス様のことをどのように受け止めていくか、それはペトロや他の弟子たちだけでなく私たち一人ひとりにも問いかけられています。ただ漠然と信じ、生きるのではなく、しっかりとイエス様に触れて、イエス様が今も私たちの中に、私たちのすぐそばにいてくださる方として受け止めながら生きていきたいです。
私は一つ大切にしていることがあります。それは1日のうちでほんの少しの時間でもよいから、まっすぐな心で神様に心を向けるということです。頭を使わず、ただ澄んだ心になることを意識して、その心で神様に心を向けます。目を閉じて、ただ神様だけを思う。そうするなら、何か心が神様に触れることができるように感じます。そして自分がすべきこと、なすべきことがわかってくるような気がします。人から言われたからではなく、神様と澄んだ心で向き合うことができたから見つけることができることがあります。
イエス様からの「あなたはわたしを何者だと思っていますか。」という呼びかけに、人から教えられたからでなく、人がどう言おうと自分の心から叫びとしてあなたは私にとって生ける神の子キリストです。他のどんな存在とも比べることができないまことの神、そして私たちを真の救いへの道へ導いてくださる方ですと、心から叫びたいです。父である神様を、そしてその独り子であるイエス様をどこか遠い存在として崇める対象としてではなく、もっと身近に生活体験の中で触れていく、感じていくことが大事です。
自分の生活の中で体験していることを澄んだ心で振り返ってみることは、神様の存在を身近に感じ取っていくために助けになります。当り前のように過ごし流してしまっている1日の何気ない出来事を信仰の目で振り返ってみること。大きな出来事だけでなく、より小さな出来事を大切にして振り返ってみることです。神様は現代という時代でも決して遠い存在ではありません。美しい朝顔の花の色一つを眺めるだけでも、その背後に神様を感じ取っていくことができます。私たち人間が、神様と親しいつながりを取り戻すことが大事だと思います。イエス様とふだんの日常生活の中でもっとつながり、イエス様の姿と心に目を向け、自分もイエス様と同じ心で生きる。それによって人は神の永遠のいのちにあずかる者になります。
今日お祝いしているペトロとパウロ、教会の礎を築いた二人。この二人はそれぞれ歩みは異なります。しかしその二人に共通するところがあるとすれば、それは共に人間としての弱さを抱えながら主の後に聞き従っていったということです。この二人はいつも自覚していたと思います。この働きの力は自分の力ではない。神がこの自分に力を与えてくださり。神がこの自分を通して働いておられるのだと。ペトロとパウロは、神に自分をあけ渡し、与えられた使命に自分を委ね歩み通しました。そして彼らは自分の歩みの中に、神の働きを見出すことができました。そして神がおられるということが疑うことのできない真実であることを証しして歩みました。
私たちもこのペトロとパウロのように、自分の生きる出来事の中に神様の存在とその働きを見出し、自分の生涯をかけて神に向かって歩み通すそのような人生を歩んでいきたいです。教会の礎となったペトロとパウロの心を私たちも受け継いで歩むことができますように祈りたいです。
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