top of page
検索

2023年5月7日 復活節第5主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2023年5月6日
  • 読了時間: 6分

ヨハネ14:01-12


14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(ヨハネ14:1-12)


私たちが今日聞いたヨハネ福音の箇所は、よく葬儀ミサの時に朗読する箇所です。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」イエス様は御自分の父の所には住む所がたくさんあって、私たちのために場所が用意できたら私たちを迎えてくださると約束してくださいます。私たちは死と聞くと、誰もが恐れを抱きます。それは亡くなった後どうなるかがわからないからです。でもイエス様の言葉を信じるなら私たちにとって死はこの世からの旅立ちであり、イエス様が用意してくださる場所に向かって希望を持って旅立つということだと思います。イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われます。心を騒がせる。私たちはどういう時、心を騒がせるのでしょうか。それは、自分の中でいろんなことがうまくいっていない時、心に平安がない時、気にかかる出来事がたくさんある時、そのような時、私たちは心を騒がせます。私たちは普段どんなに心が満たされ、平安に包まれて、喜びを感じて歩むことを願っているでしょうか。でも私たちの現実は、なかなかそうはなりきれていません。その私たちにとってつらく感じることは、自分の居場所がないということです。自分がいる場所がない。それはとてもつらく悲しいことです。人間は誰もが生きていくために、やはり安心していることができる場所が必要です。同時にただいるだけでなく、そこにあたたかい交わりがあることも求められます。人間は孤独ではやはり生きていくことができません。つながりたい。でもなかなか本当の意味でつながることができていない。それが、今私たちが生きる社会の特徴かもしれません。人とつながる。同時に神様ともつながっていく。この両方が求められます。


イエス様は「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」とおっしゃってくださっています。この「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と言われるその場所とはどのような場所のことでしょうか。それは、私たちがこの世を旅立って神様のもとに迎えられるときの場所を言っておられるかもしれません。神様が私たちを迎えてくださる場所がある。そのことをイエス様がはっきりとおっしゃってくださっていること。でも同時に、この場所は私たちが亡くなってはじめて行くことができる場所のことだけでなく、私たちが望むなら、いつでもいることができる場所、イエス様がいっしょにいてくださる場所があるということも表していると思います。


イエス様は十字架の死の苦しみをお受けになり、それを通って復活の命に入られました。イエス様が復活されたことは、これからはずっと私たちと共にいてくださるようになられたということも表しています。私たちの目で直接イエス様の姿を見ることができなくても、イエス様はずっと私たちと共にいてくださる方です。私たちにとってイエス様の復活がありがたいのは、イエス様がいつまでも私たちと共にいてくださる姿になられたからです。そして私たちが一番求めているもの、必要としている居場所を用意してくださっているということです。イエス様のお姿を目で見ることができなくても、イエス様に心を向けることで、イエス様と共に居ることができる場所がある。その居場所がある。そこで私たちに求められることはそれを信じることです。イエス様がこの自分と共にいてくださることを信じる。自分は独りではないことを信じる。心を通してイエス様に何でも自分のことを話し伝えていく。イエス様との心の交わりを大切にする。普段の生活の中で、イエス様に心で語りかけていく。それを大切にしていくなら、イエス様は私たちの心に応えてくださると信じます。人間的な思いだけで物事を見回していくなら、周りにはきっとつらいこと、困難に思うことで一杯になってしまうでしょう。でも日々イエス様との親しさ、近さを大事にしていく人は、小さな出来事であってもたくさんの感謝を見つけることができるでしょう。


イエス様は「私は道であり、真理であり、命である。」と言われます。イエス様が天の父につながる道になってくださっていること。その道を私たちが歩んで、イエス様が用意してくださっている天の父の家に入るということ。イエス様はその道を示すために私たちのもとに来てくださいました。そして今でも目に見えない姿でその道を私たちと共に歩んでくださっています。イエス様が復活されて今も私たちと共にいてくださる。私たちに求められていることは、それを信じること。そして自分の日々の歩みを通して、喜びの体験を通してイエス様が示してくださる業に気づいていきたいです。今、いろんな事情で教会のミサに与ることができず、さびしい思いをしている方々がたくさんおられます。このような状況だからこそ、今まで以上に互いのことを思い合うことができるようにしていきたいです。イエス様の思い、心に今まで以上に触れることができる手段や方法を大事にしていきたいと思います。このよきメッセージが、少しでも多くの人々の心に届けられますように。

 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年4月6日 四旬節第5主日

ヨハネ8・1-11   出エジプトという出来事は、イスラエルの民にとって自分たちの先祖が体験した苦しいエジプトの地から神の大いなる業によって脱出することができたこと、その体験がイスラエルの人々にとって神様を讃え、賛美する信仰の大きな土台となっているということです。今日の第一...

 
 
 
2025年3月30日 四旬節第4主日

ルカ15:01-3、11-32   このたとえ話の中心は何といっても父の姿です。その姿を見つめ心に刻むだけでもよいのです。弟がしてしまったこと、また兄の態度がどうであるかということに目をやるよりも、ひたすらこの父の姿と心に目を向けたいです。父は何一つとがめませんでした。甘や...

 
 
 
2025年3月23日 四旬節第3主日

ルカ13:1-9   私たちは、災害や病気、様々な不幸に直面する時、それを人間の罪の結果だとするとらえ方をします。また神様がおられるのなら、なぜこんな悲惨なことをお許しになるのだろうかと、災害や禍をあたかも神様の意志で行われているかのように見る傾きもあります。しかし、実際に...

 
 
 

Comentarios


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page