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2026年4月12日 復活の第2主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 5 日前
  • 読了時間: 5分

ヨハネ20:19-31


イエス様が十字架につけられて息を引き取られた後、弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもって、中から家の戸に鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。この家の戸は、彼らの心の戸を表していると言えるかもしれません。弟子たちは恐れから心を閉ざし、現実から離れて閉じこもっています。そんな弟子たちの中に、復活されたイエス様が現れ、弟子たちの「真ん中に」立たれます。そして弟子たちへの最初の言葉が「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。


イエス様を捨てて逃げてしまった弟子たちに、イエス様が語られた最初の言葉は、彼らの弱さを責めるものではなく、彼らの平和を願ってくださる言葉でした。弟子たちはそのイエス様の言葉によって勇気づけられました。そして喜びに満たされました。「あなたがたに平和があるように。」とても深みがあり、心の奥からこだまするような響きをもった言葉です。この平和が恐れを喜びに変えます。


少しその時の状況を見てみたいと思います。弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全だったでしょう。「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあるように自分たちの先生であるイエス様が捕えられ、殺されてしまった。自分たちにもどんな危害が及ぶか分からない、街にはイエス様の仲間を探して捕らえようとしている人が大勢いるかもしれない。弟子たちはその恐怖におびえ、家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていたのだと思います。しかし、本当の平和は部屋に鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけても心が恐れでいっぱいになっているならそこには平和はありません。本当の平和は恐れを安心と喜びに変える何かが必要です。


自分の心を安心と喜びで満たしてくれるもの。それは復活されたイエス様の存在だということです。復活されたイエス様と自分たちが真に出会っていくこと、そのイエス様が共にいてくださることを体全体で感じていくこと、それが、私たちから恐れを取り除き、真の平和で満たします。私たちの心にも恐れがあります。いろんなことがうまくいかなかったり、力を失ったり。私たちも復活されたイエス様の存在を感じることが必要です。


その本当の平和を与えてくださるイエス様は、弟子たちに向って「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」とおっしゃいます。そして彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われます。


イエス様の平和に包まれるとはイエス様が送ってくださる聖霊に包まれることです。そして聖霊に包まれるとは、イエス様が御父から遣わされたように、私たちも遣わされる、派遣されることです。イエス様は私たちを真の平和に導くために聖霊を送られます。そして聖霊は私たちを本当の平和で包むためにそれぞれの場に送り出します。それは私たちが派遣され、使命を生きることの中に真の平和、キリストの平和に包まれる体験があるからです。


復活祭の喜びを祝うということも、その喜びに閉じこもることではなく、イエス様が望んでおられる、私たちが遣わされた者になっていくということです。


今日の第一朗読の使徒言行録で、イエス様の復活後の使徒たちの周りで起きた出来事が述べられていました。使徒たちはイエス様から受けた力によって多くのしるしと不思議な業を行いました。それによって多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていきました。どうして彼らは多くのしるしと不思議な業を行うことができたのでしょうか。それは神様ご自身が彼らを通して多くのしるしと不思議な業を行っておられたからです。使徒たちはその神様の道具として、その手を差し出して働いていたのです。大事なことは神様が、使徒たちの手を通して働いてくださるということです。私たちの信仰で求められるのはその神様の働きを信じることです。


私たちが聖霊を受け、派遣されるのも、私たち自身が力を生み出して働くということではないでしょう。自分たちを通して神様が働いてくださることを信じて、自分がその手足となれるように自分を差し出していくことが求められます。


私たちが真の平和に包まれるために、この自分を通して神様が働いてくださることを体験していくことが大事なのだと思います。


弟子の一人であったトマスは、復活されたイエス様が弟子たちの中に来られた時、そこに一緒にはいませんでした。それゆえに「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と語ります。


しかし復活されたイエス様はそのトマスにも現れてくださり、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われます。


「信じない者ではなく、信じる者になること」。復活されたイエス様は今も、私たちの中におられます。その姿を直接見ることができなくても、私たちが信じて、自分の手をイエス様の手として差し出していくなら、その私たちの手を通してすばらしい業を行ってくださいます。信じるとは、復活されたイエス様が今も私たちを通して働いてくださり、私たちが真の平和に包まれるように導いてくださることを信じることです。その信仰が私たちを幸いで満たすのだと思います。



 
 
 

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