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2020年9月13日 年間第24主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月1日
  • 読了時間: 4分

マタイ18:21-35 ミサ説教

誰もが自分の経験として、自分の不注意で人の持ち物を傷つけてしまったり、人に迷惑をかけてしまったことがあると思います。そしてそのことを相手が寛大にゆるしてくれて、それによってありがたく感謝を表したこともあるでしょう。このような相手のよさによって救われた体験は誰もが経験しているはずです。でも同時に自分はそのように人から寛大に処していただいたのに、自分が犯した過ちに比べれば対したことのない些細な自分がこうむった人からの危害に対して、寛大になれずに相手を責めた経験もまた皆あると思います。

イエス様が言われる「7の70倍まで赦しなさい」すなわち限りなく赦しなさいという呼びかけは、私たちにとってなかなか十分に応えることができないものかもしれません。自分は人から寛大に処していただいているのに、自分は人に対して厳しい態度を取ってしまっている。イエス様が示してくださった行いの中で人を赦すことほど難しいものはないかもしれません。私たちがイエス様の呼びかけに答えて、人を赦すことができるようになるには、やはり自分が人から赦されていること、そして究極には神様が自分を赦してくださっていることを自分が深く受け止め、それを自分のものにしていく以外ないように思います。

神様からの赦し。私たちは神様の姿を直接見ることはできませんし、その心を直接のかたちで知ることもできません。どうやって神様からの赦しがあることをわかることができるのでしょうか。それは直接のかたちではなくても、やはり自分が日々経験していること、体験していることをていねいに振り返ってみること。その小さな体験や出来事の中に神様の心を見つけていくこと。これしかないと思います。私たちは自分がよくないことをしてしまった時、やはりそれによって自分によくない結果が起こることを恐れる傾きがあります。自分中心の態度や行動をしてしまった後、後悔と同時にそれによって何か悪いことが自分に起きてしまうのではないか。それをとっても心配して何とか何事もなく無事に過ごせますようにという思いで生きているとき、自分が恐れていたことが起こらず、平穏な生活を送ることができていることに気づいたとき、やはりこれは本当にありがたいことだと感じることができます。自分が悪いことを行ってしまったとき、それでも自分が無事に生かされていることに気がつくとき、それは当たり前ではなく、そこに大切なメッセージがあることを私たちは感じ取るべきです。今日のイエス様のたとえ話のように、自分が主人から寛大に赦されていることを心底感じることなしに、自分が人を赦していくことはできないでしょう。私たちは願いたいです。自分が神様からどんなに赦していただいているか、また赦していただいてきたか、そのことをもっと深く知り、それを心にとめることができることを。そして自分も人に対して寛大になれることを。

イエス様はなぜ、ここまで赦しということを大事にされるのでしょうか。それは天の父の一番の特徴が寛大な赦しであることを知っておられるからではないでしょうか。父があなたのことを赦してくださっている。そのことをもっと受け止めてほしい。そしてあなたも父のようになってほしい。イエス様が求められる愛は、人を赦す行いによって本物になるということ。

私たちは誰もが自分の死というものを恐れているでしょう。なぜ死を恐れるのか。それは死によって自分の人生が裁かれることを恐れているからかもしれません。誰もこの人生で完璧な生き方が出来た人は一人もいないでしょう。皆何らかのかたちで失敗があり、神様の望まれないことを行ってしまっています。そのことの償いを求められたらやはり受け入れるしかないでしょう。でも死を経て神様のもとに招かれたとき、自分の思いや恐れを超えて自分が神様からどんなに大事にしていただいていたかそのことを本当に心の底から知るとき、自ずと涙が流れ、そして本当の回心ができるのではないでしょうか。私たちにとって大切なことは、その回心を自分の死の時まで先延ばしにしないで、今、生きているときに、少しずつでも神様のありがたさに目を向けて、自分もその神様に心から感謝を捧げながら今を生きていくこと。神様が喜んでくださるのはこのことではないでしょうか。人に対して寛大になっていくこと、赦しの心を大事にしていくこと。そのために自分が神様からどれだけ赦していただいてきたかを知っていくこと。

今日、イエス様のことばを通してこのことに触れた私たちが、少しでも神様の心に近づくことができますように。そして互いのために祈るあたたかい心を培っていくことができますように。

赦しはまず先に神様から私たちへの赦しがあること。それが真理であること。そのことをいつも思って、私たちも他者を赦すあたたかい心を持って日々を歩んでいくことができますように祈りたいです。

 
 
 

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