ヨハネ01:6-8、19-28 待降節第3主日(2020年12月13日)
ミサの始めに、待降節の3番目の日曜日は「喜びの日曜日」とされていることを話しました。それで待降節のろうそくの3本目のろうそくがピンク色になっていたり、今日の待降節の3番目の日曜日の祭服もピンク、またはバラ色を使うことができるようになっています。待降節がただ悔い改めを呼びかけるのではなく、喜びの日を待ち望むということを表しています。
今日の福音では、洗礼者ヨハネの姿が描かれています。洗礼者ヨハネは、自分はメシアではなく、そのメシアを証しする者であることを告げます。洗礼者ヨハネはメシアであり光である方を証しします。その方は神の子である主イエスです。私たちの信仰は、この光である主イエスを証しするその信仰の証しによって受け継がれてきたものです。それは単に知識が伝えられてきたのではなく、神様が私たちと共にいてくださること、私たちと共に歩んでくださっていることを一人ひとりが自分のものとして証しし続けてきたということです。
私たちがこの現代社会の中で問われていることは、この神様が共におられるということをどのように証ししていくことができるかだと思います。神など存在しない、または全く無関心で人間的な思いだけで生きてしまっている、そのような社会の中で神様を信じて歩んでいくとは自分としてどう証しをしていくことだろうか。そのことを大事に見つめるということです。
洗礼者ヨハネが証しした光、その光は貧しくても素朴にそして心から神様を呼び求めていた人たちに輝きました。人間に向かってではなく、神様に向かって心の叫びをあげていた人たち、自分の無力さ、弱さをよく見つめていた人たち、心から神の子の到来を待ち望んでいた人たち、そのような人々の側に神の独り子は誕生されます。クリスマスを迎える前にやはり私たちに大事なことは、自分の中の「貧しい部分」、「飢え渇いている部分」、また社会の中の「飢え渇いている部分」をよく見つめることです。
神の独り子は、旅の途上の貧しい馬小屋で誕生されました。そこには人間の抱える重荷と苦しみを共に分かち合おうとしてくださる神様の心が表わされています。私たちはなかなか自分で自分を変えることができません。しかしそこに何かのあたたかさに包まれる体験があるなら、私たちは自分が変わることができます。神の独り子の誕生で表わされていることは、へりくだり、ゆるしに満ち、私たち人間と同じ姿になって神様の方が私たちの側に来てくださったということです。神様が自分を受けとめてくださっている。そして私たちの人生の歩みを共に分かち合おうとしてくださっている。そのことをお示しになるために神の独り子は私たちと同じ現実の中に、それも貧しさを身にまとうかたちでお生まれになりました。
私たちの中には、イエス様が来られたのに、そして今も働いてくださっているのに、どうしてこの世界は未だに闇の部分が消えてなくならないのだろう。どうして多くの苦しみを耐え忍ぶことが求められるのだろう。そのような思いがたくさん私たちの中に起こります。私たちも、時々わからなくなったりするのは当然だと思います。神様が共にいてくださっていること、死を越えた永遠のいのちに与る希望があること、でもそれっていったいどんなことなんだろう。そしてそこに向かって歩む中で味わう苦しみの意味と、その歩みをイエス様も共に歩んでくださっているって、実際にはどういうことなんだろう。そのような思いが私たちの中をよぎります。手に取るように、神様の存在とイエス様の姿を実感したい。そんな思いが誰の心にもあるでしょう。どうしたら、私たちがもっと神様の心、呼びかけ、うながしを感じ取ることができるでしょうか。そして神様が共にいてくださるその慈しみとあたたかさを感じ取っていくために何が大事でしょうか。それは、私たち一人ひとりに問いかけられていることです。そしてその答えは、きっと受け身の態度では与えられない、自分の方から動いて、近づいて、心を向けて初めてわかるものなのだと思います。
主の降誕の場面でも、羊飼いたちも天使の呼びかけに応えて、イエス様が誕生された場所を訪ねて行きました。東方の3人の博士たちも、遠い東の国から、光輝く星を手掛かりに、長い旅を続けてその場所を探しあてました。じっと待って何もしない生き方から、自分も一歩、自分の枠から抜け出て、動き出してみる。その歩みが決して無にならないことを信じてみる。そんな動きや歩みの中に、きっと神様が共にいてくださることを感じ取る鍵が隠されているのだと思います。
待降節も三番目の主日を迎え、もう来週は主の降誕をお祝いします。そしてそのための本当の準備は、自分と神様とのつながりをより強いものにしていくことです。神様は私たち人間の想像や思いには収まらないくらい大きく、そしてきめ細かい心をもっていてくださる方です。苦しみの中を歩む中で、神様にしかもたらすことができない喜びがあるということを、私たち一人ひとりが感じ取ることができますように祈りたいです。そして、今年も迎えるクリスマスの日が、本当の喜びの日となれますように願います。
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