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2020年11月29日 待降節第1主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月29日
  • 読了時間: 4分

マルコ13・33-37 ミサ説教


今年も待降節が始まります。待降節で何が大事なことかと思います。そしてそれは、一人ひとり闇を見つめることではないかと思います。私たちが生きているこの世界の中にある闇、そして一人ひとりの心の中にある闇。誰もが自分の中に闇の部分を持っています。自分の中でうまくいっていないところ、いろんなことに縛られ不自由になってしまっているところ、神様が望まないことを行ってしまうところ、そのような闇を私たちは抱えています。同時に私たちが生きているこの社会の中にも闇があります。そんな闇の中にある私たちが、心の目を天に向け、その闇の中で輝いている光に目を向けることが大事です。天の父は闇の中に輝く光を与えてくださいます。それはご自分の独り子であるイエス様です。私たちがうまくいっているからイエス様が誕生されたわけではありません。いろんなことでうまくいかず、倒れてしまっている私たち、神様の望みをなかなか生きることができていない私たち。そのような私たちのために神の子が光として来てくださるということです。毎年私たちはクリスマスを準備する待降節の時、そのことを思い起こすように招かれています。


今日のミサで読まれた3つの朗読を通して共通しているテーマは、主の到来を待ち望むということです。第一朗読のイザヤの預言では、父である神様に向かって「立ち帰ってください、あなたの僕たちのために・・。どうか、天を裂いて降ってください。」と叫びます。神様の望みとはほど遠い人間の現実の中で、主が降りてきてくださり、導いてくださることを叫び願っています。そして福音では、イエス様が再びこの世に来られるその再臨の日に向けて目を覚ましているという態度が求められています。この目を覚ましているという生き方こそがキリスト者の生き方です。クリスマスという日を待つだけでなく、究極的には一人ひとりがイエス様と出会うその再臨の日に向けて目を覚ましている態度で歩みなさいというのがイエス様の呼びかけです。待降節は、ただクリスマスのお祝いの日を迎えるためにいろんな準備をするというより、もっと根本的に私たちのあり方、どのようにこの人生の日々を歩むべきか、イエス様と真に出会うその日に向けてどのように歩むことが一番よいのか、そのことを一人ひとり改めて見つめ直す時だということです。


私たちにとって、主の再臨の日と言われても、正直ピンとこないというのが正直な思いでしょう。それよりも自分の死、この世からの旅立ちの日というほうがもっと現実味を帯びているかもしれません。それでも、その日に向けて、イエス様と真の意味で出会う日に向けて、自分がどうあったらよいかよく考えてみることは大切だと思います。今日の第一朗読のイザヤの預言から私たちは大事なメッセージを学び取ることができます。イザヤの預言が書かれた時代は、イスラエルの民が自分たちが犯した罪の結果として招いたバビロン捕囚という苦しみの時代でした。預言者イザヤは苦しみの中にあるイスラエルの民に、父なる神様に心を向けることを促します。同時に父なる神様に向かって、「主よ、どうか天を裂いて降ってください」と願います。神様から離れ、自分勝手に生きたイスラエルの民にとって神様の慈しみを願う術はありませでした。それでもイスラエルの民に希望を与えたのは、神様が自分たちにとって父としていてくださるという確信でした。父は自分の子がどんなに自分から離れた生活を送っても、自分の子のことを忘れることができません。自分の子がうまくいっていないのであれば、なおさら自分の心を向け、手を差し伸べたいと思います。それが本当の父の心です。イスラエルの民は、そんな父の心を持っていてくださる神様に最後の願いを向けるのです。


今日の福音で言われる「目を覚ましている」とは、ただ主人がいつ帰ってくるかわからないから、その主人からしかられないように正しい生き方をするということではありません。それよりも目覚めているとは、神様が私たちにとって本当の父としていつもいてくださる。そのことに目覚めているということです。


私たちの中にはまだまだ闇に覆われているところがあって、十分に父である神様の姿を汲むことができていないのかもしれません。それでも神様はいつでも待っていてくださるんだと思います。待降節はその神様の心を汲んでいくそのための期間でもあります。


 
 
 

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