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2022年4月3日 四旬節第5主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年4月2日
  • 読了時間: 4分

ヨハネ08:01-11 四旬節第5主日(2022年4月3日)


皆さんは出エジプトという出来事を聞いたことがあると思います。イスラエルの民にとって自分たちの先祖の民が体験した苦しいエジプトの地から、神の大いなる業によって脱出することができたこと。その体験がイスラエルの人々にとって神様を讃え、賛美する信仰の大きな土台となっていることは私たちも想像できます。今日の第一朗読で読まれたイザヤの預言は、かつて出エジプトを体験したイスラエルの民が、今またバビロン捕囚という憂き目にあっている時に、預言者イザヤが主の言葉を告げている箇所です。イザヤは告げます。「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。・・わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」これは、バビロン捕囚が始まってすでに40年が過ぎ、イスラエルの民の間に失望の念が充満している中にあって、再びエルサレムに帰還することができる日が近いことを告げるものです。バビロンとエルサレムの間には荒れ野が広がっていて、そこでイスラエルの民が渇ききってしまわないように、神様が荒れ野に大河を流れさせ、民の渇きを潤してくださることを告げるものです。神様はそうやって再びイスラエルの民を救われます。その神様の目的は、イスラエルの民が神様のなさる業を知って賛美するためなのです。私たちは現代を生きる者として、このような出来事を遠い昔のイスラエルの民に限られた事だと思わないようにしたいです。神様はかつてイスラエルの民に示されたのと同じ思いと心を現代を生きる私たちにも向けておられます。私たちが洗礼を受けてキリスト者となったということの意味は、この現代という時代の中で自分の歩む生涯において神様がこの自分に示してくださった力ある業を思い起こし、それをこの時代の中で指し示す者になっていくということです。信仰を持つとは、自分の歩みの中で神様の働きを感じ取る心の目を持つということです。自分は普段の生活の中でどのように神様に向き合い、神様の存在を意識できているか見つめ直したいです。


今日の福音で姦通の現場を取り押さえられた女性がイエス様の前に連れて来られます。人々は律法に従って石殺しにすることの是非をイエス様に問います。しかしイエス様の答えは、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というものでした。イエス様は女性の罪を問いかけた者一人ひとりに、まず自分自身を振り返ってみることの必要を投げ返えされました。そして、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って、イエス様と真ん中にいた女性だけが残りました。イエス様はこの女性に「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われます。イエス様はこの女性を断罪することより、励ましと慈しみを示され、この女性がこれからもう罪に縛られて不自由さの中を生きることのないように諭されます。イエス様は罪をお望みにはなりません。しかしイエス様が律法学者やファリサイ派の人たちと違っていたのは、その罪を犯してしまった人の苦しみ、そして悲しみを心に留められたことにあります。多くの場合、人は、悲しみ、さびしさから罪を犯します。自分が満たされていない、心の中に渇きがある、その渇きを間違った方法で埋めようとしていくとき、私たちはいわゆる罪を犯してしまいます。もしそうだとしたら、そこから立ち上がる唯一つ方法は、その心がいやされ、あたためられる体験をするということです。イエス様は人の悲しみ、苦しみを理解し受けとめること、心をあたため励ます赦しの言葉を投げることを通して、そこから立ち上がらせようとされます。それがイエス様の姿を通して示される父である神様の思いであり、なさり方だということです。


罪とは人間の心の根本に巣くっている「闇」の状態と言えます。どう生きたらいいかわからずさまよっている状態、光を失っている状態、神様が共にいてくださることを忘れ、自分の思いだけで事を行っていく態度。そして自分の言葉や態度で人を傷つけ、悲しい思いをさせてしまうことです。そのような「闇」の状態から私たちを引き上げ、救い出すために、イエス様は来てくださり、私たちのためにいのちを捧げてくださったのです。そのためにどれほどの苦しみをイエス様はその身に引き受けてくださったのでしょうか。そのイエス様が望まれるのは、私たちが立ち返って、神様に心を向けて歩むことです。消えることない私たちの罪をイエス様が代わって背負ってくださいます。イエス様が私たちに求められるのは、そのことへの感謝の心なのだと思います。私たちが普段の生活において、もっとイエス様と対話し、イエス様との親しさが今まで以上に深まることを願います。四旬節の残された日々をイエス様とより親しくなるために使っていきたいです。

 
 
 

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