ルカ02:22-40
皆さんにとって2023年はどのような年だったでしょうか。今年1年のそれぞれの歩みを振り返りながら、新しく迎える年を、希望をもって過ごせるようにその恵みを願いたいです。
今日は聖家族の祝日です。聖家族はイエス様を中心としてマリア様とヨセフ様が共に歩まれた家族の姿を表していて、その姿は私たちの生きる模範となります。イエス様がこの世に誕生される時、父なる神様はマリア様とヨセフ様に協力を求められました。ヨセフ様は、自分が注目されるとか、高められるとか、そのような思いから遠い方です。へりくだりと沈黙のうちに聖家族の保護者としてのご自分の役割を果たされました。そのヨセフ様のご保護と守りがあったからマリア様はきびしい条件の中でも安心して神の独り子であるイエス様を生み育てることがおできになられたでしょう。マリア様にはマリア様の、ヨセフ様にはヨセフ様の神様から与えられた役割がありました。そしてこの二人に天使が告げた共通の言葉は「恐れることはない」という言葉でした。「恐れることはない」、それは人間的な思いにとらわれずに、神様の言葉と導きを信じて歩みなさいということです。
今日の福音で、聖家族は律法で定められたことをみな終えて、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰ったとあります。このガリラヤのナザレの町こそ、イエス様が公生活を始められるまでの30年もの間過ごされたところです。ガリラヤのナザレでの聖家族の生活、それがどのような生活であったか福音書に詳しい記述はありません。それでもきっとイエス様はマリア様とヨセフ様の間でごく普通の生活を送られたのだと思います。ある人が想像で描いた絵があるのですが、マリア様が小さなイエス様を側に置いて洗濯ものを干しておられる場面の絵です。聖書にはそのような記述はありませんが、きっとそのような場面がナザレでの普通の生活の中であったということです。
この世に救い主としてマリア様のうちに聖霊によって宿り、誕生されたイエス様はその大部分の歩みを、人間と同じ普通の日常生活を共にするというかたちで過ごされました。ヨセフ様が大工であったところから、御自分も大工の仕事を習い、その仕事をなさったでしょう。普通に仕事をし、食事をし、そして休む。そのような日常を30年間続けられたということです。ここにも何か人間の思いを超えた神様の心が示されているように思います。私たちは神様の働きを考えるとき、何か特別な大きな働きを考えてしまっているかもしれません。でも神様の働きのほとんどは、ごく普通の日常の生活の中で行われているのだと思います。この1年の私たちの普段の生活の中に神様はどのように溶け込んで共にいてくださったでしょうか。一人ひとり自分の生活を振り返り、目立たないかたちであったかもしれない、目を見張るような出来事ではなかったかもしれない、それでも神様は私たちの普段の生活の中に共にいてくださったことを思いたいです。
私たちはもしかしたら、神様が共にいてくだるのだったら、こんな苦しみや困難があるはずがない、すべてがうまくいくように計らってくださるというような思いを抱いてしまっているかもしれません。でも私たちが経験から学んでいるように、私たちの人生の歩みの中には苦しみや困難が無くなることはありません。それでもその苦しみや困難を神様も共にしてくださっているということです。
神殿で幼子イエス様をその腕に抱くことができたシメオンも、イエス様の将来を預言して言います。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」神の独り子であるイエス様の歩みが、人々から反対を受けるしるしとなること。なぜなら多くの人間の心にある思いがあらわにされるからです。神様が指し示される歩みは、平坦な歩みではありません。時に多くの苦難が覆いかぶさることもあります。信仰の歩みを否定する力との戦いも求められます。それでも、人間の思いを越えて導いてくださる神様のなさり方に、信仰の目を向け続けることです。
幼子イエス様を自分の腕に抱くことができたシメオンがその腕で感じることができたもの。それは、この独り子が歩む使命の重さと同時に人間を救いに導いてくださる大きな希望だったと思います。私たちも信仰とは、このイエス様をしっかりと自分の腕に受けとめて、その感触を感じながら、指し示される道を歩み通すことです。
裏切られることのない希望を自分の心の支えにして歩むことができますように。同じ道を歩んでくださった聖家族から私たちがいつもご保護と支えをいただき、最後まで信仰の目を失わないで歩む続けることができますように共に祈りたいです。そしてこの1年を感謝の思いで終え、新しく迎える年を希望をもって迎えたいと思います。
Comments