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2025年3月30日 四旬節第4主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 3月29日
  • 読了時間: 5分

ルカ15:01-3、11-32

 

このたとえ話の中心は何といっても父の姿です。その姿を見つめ心に刻むだけでもよいのです。弟がしてしまったこと、また兄の態度がどうであるかということに目をやるよりも、ひたすらこの父の姿と心に目を向けたいです。父は何一つとがめませんでした。甘やかすとかのレベルを超えて、父は息子が戻ってきたこと、死んだ状態から帰ってきてくれたこと自体が感情をおさえきれないくらいうれしかったのです。その父の心をイエス様はこのたとえ話で私たちに伝えたいのです。

 

親の愛は普通の人の愛とは違います。自分の利を求めず自分を与えていく愛です。親の心を動かすものは正義ばかりではありません。子がみじめであればあるほど親の心は痛みます。そしてその失われたと思っていた子が戻ってきたときの親の喜びは親でなければわからないものです。この親の喜びは、我が子の姿を遠くから見つけるや否や、かけよってくることによってあらわれます。このような父の姿は、もう子と呼ばれる資格がないと思いつめて帰ってきた息子にとって、大きな驚きと同時に深い感激となってその心に刻みつけられたことでしょう。イエス様は、このたとえ話の父の姿を通して、父としての神様の愛の深さと真実さを伝えようとされたのだと思います。父としての神様には、人間以上の愛とやさしさがあるということ、それがイエス様のこのたとえ話の中心点です。

 

子が親から独立していくこと、それは普通の親子の関係では正常なことです。親の方も子どもの自立を願うのが当然です。でも、この弟の旅立ちの背後にあるものは欲望です。楽しみたい、出かけてみたいという欲望がその行動の原動力になっています。弟の心には、父への思いが消えています。その動機はあくまで自分本位です。自己の充足だけが、その心を動かしています。イエス様はこのたとえの話の中で、愛を拒み、自己の充足だけを求める生活が、究極において惨めな結果を招くことを指摘しています。弟は財産も名誉も信用も、人間としての品位も、自由までも失う生活の中に置かれます。弟はどん底に落ちてしまいます。「彼は豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人はだれもいなかった」。ここに、現実の厳しさがあります。弟はそのような中で「我にかえり」ます。そして自分の父のことを思い出します。父のもとでは雇い人も皆食べることに不自由せずに生活している。自分はもう息子と呼ばれる資格はないけれども、父のもとに帰って雇い人の一人として置いてもらうことを父に願おう。

 

親の愛は普通の愛とは違います。親の愛は子どもにとっては、生命の根であり、泉です。このたとえ話に出てくる父は帰ってきた息子の姿を見て、いてもたってもいられず、思わずかけより抱きしめます。それがイエス様が示されたかった父である神様の本当の姿だということです。私たちは神様を聖なるものとしてかえって遠い存在にしてしまっているかもしれません。私たちは神様をどこか遠く離れた存在としてしまっているところがあります。しかし、イエス様が全面に押し出される父である神様の姿は、その聖なる面の強調ではなく、あくまであわれみなのです。

 

律法学者やファリサイ派の人たちにとって神様とは何よりも聖なる存在です。そしてその聖なる存在は人間に聖であることを求めます。この考えに基づいて彼らは人間が聖となるための生き方の形を定めていったわけです。しかしその彼らが定めた聖なる形を実践することのできない者は皆、汚れ、神様から見捨てられていると考えていました。しかしこの見方をすると、人間のほとんどは救われることのできない落伍者になります。

 

イエス様が強調された父である神様の姿、それは憐れみの神、愛の神であるということ。イエス様は神の憐れみというものをその全面に押し出します。神様は泥沼であえいでいる人間の中に降りて来て、その人々を抱きしめられます。そして彼らを神様が持っておらえる真の富にまで引き上げようとされます。泥沼の中であえいでいる私たちの姿に心を痛められる神様。その神様の具体的な愛の姿が人間となってこの世に来られたイエス様だということです。イエス様は落ちこぼれている私たちの希望なのです。イエス様が教えられる罪とは、神様から離れ、神様との関係を失うことにあります。父のもとを離れた弟は、やがて死んだも同然の状態へと向かいます。父を離れ、父との関係を失ったことこそ罪であり、それが人を真の生き方から離れさせます。

 

神様の喜びは、この失われていたものとの交わりが回復したことから生じます。弟は父との関係を回復しようとして戻って来ました。それを父はとても喜んだということです。一方兄は、定められた掟に従って生活していたかもしれません。しかしその心は父から離れていました。神様の喜びは、その心が父である神様に結びついたものであることです。父は兄にも弟が帰ってきたことを一緒に喜んでほしかったのです。兄にも父と同じ心をもって生活してほしかったのです。父である神様の見方で物事を見て、それを生きること。それが神様を喜ばせる一番の方法だということです。

 

四旬節で求められる本当の回心とは、この神様との深い絆、つながりを回復していくことにあります。今日、この福音に触れた私たちが、自分の心を神様に向かって大きく開き、何でも自分のことを神様にお伝えして、それを通して神様との深いつながりを日々実現していくことができますように祈りたいです。四旬節は、神様との親しい関係を深めるためにあるのだと思います。

 
 
 

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