top of page

2021年11月28日 待降節第一主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2021年11月28日
  • 読了時間: 4分

ルカ21:25-28、34-36待降節第一主日(2021年11月28日)


今年も待降節が始まります。待降節は直接的には主の降誕、クリスマスを迎える心の準備をする期間のことです。同時に教会は私たちに今をどう生きるかについて問いかけます。福音の中のイエス様の言葉「目を覚まして祈りなさい」を私たちがどのように生き方につなげていったらよいかこの待降節の始まりの時、祈りのうちに見つめたいと思います。


待降節と聞くと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。紫の祭服、待降節のために用意された4本のろうそく。そしてクリスマスを迎えるための様々な準備。その待降節には二つの意味があります。その一つは2千年前のイエス様の降誕を記念する降誕祭を準備する期間であるということ。そしてもう一つの意味は、この世の完成の時のキリストの再臨、神の国の完成の時に心を合わせて心を整えていくという意味です。今日の福音で、イエス様が話されたこの世の完成の時に起こる出来事が示されています。「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」普通なら、このような天体が揺り動かされることが起こったら、皆不安に陥り、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまりに気を失うことは当たり前だと思います。しかし、イエス様は続けて、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」そう言われます。天体が揺り動かされる出来事が起きるとき、そこに不安と恐怖だけを感じてしまうか、それともそれらの出来事をしるしとして受けとめ、自分たちの解放の時が近いと頭を上げることができるか。その2つの態度に分かれるということです。


イエス様の呼びかけは、その時を救いの完成の時として喜びをもって迎えることができるように、いつも目を覚まして祈りなさいというものです。その、いつも目を覚まして祈ることは、自分の中に不安と恐怖があるということだけだったらできないのではないかと思います。不安や恐怖ではなくそれ以上に、その時イエス様と真に出会うことができる、それはきっとすばらしいことだ、その思いが私たちに日々目覚めて祈ることを可能にするのだと思います。これから先何が起きるのか、将来どうなるのかを思っても、先のことはわからないというのが本当でしょう。それでも、明日のことでさえもわからなかったとしても、イエス様が望まれるのは、その日に向けて今日という日を大事に過ごす、そのことだと思います。


私たちはこれから待降節の歩みを始めます。待降節の中でイエス様の降誕の日を喜びをもって迎えるために、一人ひとりが心の準備をします。そしてその準備とは、一人ひとりが自分の中にある闇、そして社会の中にある闇を見つめることです。闇の中で光を失っている私たちのために、神の独り子は光として来てくださるのです。私たちが一日、一日を大事に過ごすためにも、神様の心を感じること、そして神様の光で自分の心が照らされて歩むことを願うこと。それが大事です。イエス様はこの世の完成の時、天体が揺り動かされるほどの出来事が起こるだろうと言われます。それは私たちの想像を超えた壮絶な善と悪との戦いを指しておられるかもしれません。神様に挑戦する悪の力が猛威をふるう。それでもイエス様はそれらのことが決して悪の勝利では終わらず、イエス様の到来によって真の喜びの日となると約束してくださっています。


私たちにとっていつの日かはわからないこの世の完成の日。その日がいつであっても、頭を上げて、天を仰いで、そこから来られる主の到来を待ち望みたいです。私たちが待ち望むのは、自分とイエス様との真の出会いです。イエス様と真に出会うことがどれほど喜びに満ちているか。それを思うことができるなら、私たちは心を鈍くしてしまうことなく、いつも目覚めて歩むことができるでしょう。今年も始まる待降節が、私たちに本当に大切なことを教え、日々をどのような心で過ごしたらよいかを示すものとなることを祈り願いたいです。














 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年12月14日 待降節第3主日

マタイ11:02-11   第一朗読で預言者イザヤが荒れ野や荒れ地、砂漠に向かって「喜び躍れ、・・花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」と呼びかけています。荒れ野、荒れ地、砂漠は草花の生育には適さない場所です。一面に花を咲かせることはふつうは考えられません。なぜ預言者イザヤはこのような言葉を語ったのでしょうか。   預言者イザヤがこの言葉を語った時代は、人々の間に閉塞感が広がっていた時代だった

 
 
 
2025年12月7日 待降節第2主日

マタイ03:01-12   待降節は、英語では「アドベントAdvent」と言います。その意味は「到来」です。待降節第2主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」に私たちも心を向けたいと思います。   私たちは今、主の降誕を迎えるために心の準備をする待降節を過ごしています。その過ごし方として大切なことは、自分の中に

 
 
 
2025年11月30日 待降節第1主日

マタイ24:37-44   今日から待降節が始まります。「待降節」という言葉はその字が表しているように「主の降誕を待つ季節」という意味です。そしてクリスマスを迎えるための心の準備をするという意味で祭服の色も紫になります。今年もこの待降節の時を大事にしてよき心の準備ができますように祈りましょう。   教会の典礼は、待降節から新しい1年が始まります。そして教会が教会にとっての1年の最初の主日に選んだ聖

 
 
 

コメント


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page