マルコ09:38-48 年間26主日
第一朗読で読まれた旧約聖書の中の「民数記」とはどのようなものかというと、エジプトから脱出することができたイスラエルの民が、その後荒れ野の中を旅する様子が描かれているものです。エジプトの苦しみから脱出することができ、意気揚々と旅するイスラエルの民でしたが、そこで飢えと渇きに直面し、早くも不満の声を上げます。民の不平を受けたモーセは苦しみます。そしてイスラエルの民を自分一人で導くのは荷が重すぎると神様に訴えることになります。そのモーセの訴えを聞かれた神は、民の長老たちの中から70人を選ぶように指示されます。そして彼らに霊を授けて、彼らがモーセと同じように神との深い交わりの中で民に語り、行動することができるようにされます。それは少しでもモーセの負担を軽くするためでした。その長老たちの選びと霊が授けられる様子が今日の第一朗読で読まれた場面でした。モーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
これは、民の全てが神との深い交わりを生きて、行動できるようになることを願っているということです。このモーセの思いは、イエス様の思いにもつながっています。イエス様も、私たち全てが聖霊を豊かに受けて神様との深い交わりを生きるようになること、そして神様の望まれることを行うことができるように願っておられます。全ての人が神様との交わりを生き、行動できるようになること。それは、神様を忘れ、神様から離れて、人間の思いだけで生きることから、もう一度神様に心を向け、神様の思いを大事にして歩むことを意味します。
今日の福音でイエス様は言われます。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかるほうがよい。」これと同じ主張で、足についても、目についても繰り返されます。
ここでイエス様は何度も「地獄」という言葉を繰り返されます。この地獄とはどのようなものでしょうか。きっと多くの人はこのことに大きな興味を示すでしょう。地獄が実際に存在するのか。イエス様も今日の福音の中で口に出されているのだから、やはり存在するのではないだろうか。そしてそこはとても恐ろしいところで、神様は一人ひとりの人生をお計りになり、やはり神様の目に適わなかったものは地獄に落とされ、永遠の苦しみを味わうことになるということではないだろうか。きっと多くの人がそう感じていると思います。
でもイエス様は、今日の場面でどうして地獄というものを引きあいに出されたのでしょうか。
地獄の恐ろしさを人々に示し、そこに落ちることにならないように生活を改める大事さを強調されようとされたのでしょうか。私は思います。イエス様のなさり方は、何か人間を脅してそこから回心に招かれるようなことでは決してないということです。地獄が存在するかどうか、またそこがどのような場所か、私たちは自分で確かめることはできません。そしてイエス様も地獄が存在するか、またそこがどういう所であるかについて事細かく話すことはなさいません。それよりもそこに投げ込まれるのではなく、全ての者が神の国の命に与ることができるように歩むことが大切だと強調されているのです。
私たちは日々の生活を歩む中でたくさんの困難や苦しみに直面します。また簡単に神様のことを忘れて、一人よがりで自分を中心にした生き方を行う心も持っています。イエス様のように自分に死んで、自分を与え愛を生きる生き方が中々できないことも起こります。それでも、私たちはどんなに失敗していても、いつもイエス様に心を向け、イエス様に力を願い、イエス様と共に歩み続けることを祈り続けていく必要があるということです。どんなに苦しく簡単ではないと思えても、やはり神の国の命の喜びに与ることが、私のこの人生を生きる意味であることを深く心に刻んでいくことです。地獄の様子と同じように、神の国の命に与るすばらしさについて私たちが今、完全に知ることはできないでしょう。それでも少しずつではあっても、私たちが日々をイエス様を心に留めて大事に歩んでいくなら、必ずその喜びに与ることができると信じます。
神の国の命の喜びは、今、生きているこの時からすでに始まっています。イエス様の姿を直接仰ぎ見ることはできなくても、イエス様がいつも私たちと共に歩んでくださっていることを信じたいです。そして私たちの方からもっとイエス様に対して「イエス様」と呼びかけ、イエス様を意識して日々を歩んでいくなら、必ず私たちの心が解放され、いろんな囚われから自由になって、喜びを見出しながら生活できることに気づかされるでしょう。私たちがもっとイエス様と共にある喜びを心に留め意識していくことができますように。地獄の恐ろしさを心配するよりも、神の国の命の喜びを思い描くそんな歩みができますように。イエス様がこの福音でおっしゃりたかったのは、地獄の怖さ、恐ろしさではなく、神の国の命の喜びのすばらしさであったことをしっかり心に留めていきたいです。
Comments