top of page

2026年8月9日 年間第19主日

執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
カトリック戸塚教会
8月9日
読了時間: 4分

更新日:8月15日

マタイ14:22-33


今日の福音は、イエス様が5千人もの人々を食べて満腹させられた後、一人祈るために山に登られたところから始まります。イエス様はなぜ一人で祈るために山に登られたのでしょうか。そしてイエス様にとって祈りとは何を意味したでしょうか。イエス様の祈りは、御自分の父である天の父に心を向けることだったと思います。御自分にとって一番大切な方である天の父に何でも話し、相談し、御自分がこれから行うこと、人々に伝えることを確認しておられたのだと思います。イエス様は、御父の了解なしに何もなさいませんでした。イエス様にとって天の父は特別な方であり、一番の理解者だったと思います。天の父と何でも話し、天の父の思いを行うことがイエス様の使命でした。


そのイエス様は湖の上で強い風と波に漕ぎ悩んでいる弟子たちのもとへ湖の上を歩いて近づいていかれます。湖の上を歩いて弟子たちの元へ近づいていかれるのは、イエス様がただの方ではなく、神の子であることを表しています。しかし弟子たちはイエス様のことを幽霊だと思い、恐れを感じてしまいます。私たちももし同じ状況にいたとしたら、弟子たちと同じ態度を取ったかもしれません。また、同じようにイエス様が現代に現れて姿を見せられたとしたら、私たちは喜びよりも、きっと恐れを感じてしまうのではないでしょうか。どんなに信仰を持っていたとしても、実際の私たちは本当に弱いものです。すぐ恐れや不安を感じてしまいます。


私たちが持っている信仰は、私たちにとってどのようなものでしょうか。洗礼を受けていても、また信仰を持っていると言っても、やはり人生の嵐に遭遇すれば、恐れと不安を感じます。それは第一朗読に登場した預言者エリヤも同じでした。預言者エリヤは、神に対し背を向ける北イスラエル王国の人々に遣わされた預言者でした。預言者として民に回心を説き、果敢に偽預言者に立ち向かったエリヤでしたが、アハブ王と異教の神バアルを信じるその妻イゼベルによって命を奪われようとすると、命からがら荒れ野に逃げ、精根尽き果ててしまいます。そんなエリヤに神が語られたのは、もう一度引き返し、語り続けよというものでした。そして神が共にいてくださることを感じさせてくださいました。


ペトロも他の弟子たちと同じように、最初湖の上を歩いて近づいて来られるイエス様の姿に恐れと不安を感じていました。それでもイエス様だとわかると、逆に自分もイエス様と同じように水の上を歩くことを求めます。イエス様から「来なさい」と言われたペトロは水の上を歩き始めますが、すぐに恐ろしくなって沈み始めます。そんなペトロをイエス様は引き上げて「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されます。


でもペトロにとってこの出来事が、イエス様に対する信仰を告白する大きな機会になりました。もしペトロが舟の中にとどまっていたら、このような体験をすることができなかったでしょう。イエス様を信じて水の上を歩き始める。でも途中で恐ろしくなって沈みかけた時、イエス様が引き上げ救ってくださった。そしてイエス様が持っておられる真の力に触れることができた。


私たちが使っている「信仰」という言葉は、語源をたどれば「信頼」と言い換えることができます。神様を信じるとは、神様に信頼するということです。神様に信頼を置いてこの人生を歩むということです。私たちにとって、この世で神様を信じて人生を歩むことは、湖の上を歩くのと同じことです。目に見えない、直接声を聞くこともできない。いろんな困難も経験する。そのような状況にあっても、神様に信頼を置いて人生を歩むとは、ペトロと同じように湖の上を歩み出すことと同じです。


そして大事なことは、途中で不安や恐れから無力さを感じて人生の荒波の中を沈みかけたとしても、イエス様に向かって「主よ、助けてください」と叫ぶ心さえ失わなかったら、イエス様は必ず手を差し伸べてくださるということです。私たちは自分の今までの人生の歩みを振り返る時、そのようにイエス様によって救われた出来事が一度もなかったでしょうか。すべてがただ苦しいことが連続する人生だったでしょうか。神様に心を向けることなく歩んでいたら、そういうこともあったかもしれません。でも困難や苦しみに遭遇した時、イエス様に向かって叫んでいく時、私たちの信仰はより強められ、イエス様と共にこの荒波の中を歩み続けることができます。


私たちにとって大切なことは、いつもイエス様に向かって自分の思いを叫び続けることです。心からの叫びは祈りとして神様に届きます。そしてイエス様の姿が感じられたら、そのイエス様に向かって一歩踏み出していくことです。イエス様はそのような私たちの大きな信頼の態度を待っていてくださいます。信仰は神様への信頼を生きることです。今日私たちはこのことを心にしっかり刻んで帰りたいです。信仰が私たちにとって真に生きる大きな力になりますように。





 
 
 

最新記事

すべて表示
2026年10月18日 年間第29主日

マタイ22:15-21 イエス様は今まで多くの人々に訴え、天の父の心と私たちへの思い、呼びかけを宣べ伝えて歩まれました。しかし、そのようなイエス様の心は、当時のファリサイ派の人々には理解されませんでした。そしてファリサイ派の人たちとイエス様との間に深い溝ができます。そのような中でファリサイ派の人々は、イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようとして、皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかどう

 
 
 
2026年10月11日 年間第28主日

マタイ22:01-14  私たちが神様の存在を信じていても、神様は、今は直接のかたちで姿を表すことはなさいません。平凡に見える日々の出来事を通して働かれると言えるかもしれません。私たちは何か特別でこれは神様がなさった事だと誰もがわかるような出来事を望んでいるかもしれません。そうすれば、もっとイエス様のおっしゃること、また人生の意味や大切にすべきことがわかると思うからです。 今日の福音でイエス様は一

 
 
 
2026年10月4日 年間第27主日

マタイ21:33-43 誰でも作物を育てるなら、よい収穫を待ち望みます。イザヤの預言で神様は「私は良いぶどうが実るのを待った」と言われます。神様はいつも良いぶどうが実るのを待たれる方です。神様が私たちに望まれる良いぶどうの実りとは何を指しているでしょうか。イエス様は今まで幾度となく人々の心に訴え、愛とあわれみの大事さを宣べ伝えてこられました。生活に疲れた人々、社会の底辺で苦しむ人々、罪人や落ち

 
 
 

コメント


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page