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2026年7月12日 年間第15主日

執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
カトリック戸塚教会
7月11日
読了時間: 5分

マタイ13:01-9


イエス様は神の子としてこの世に御父から遣わされて来られました。そしてそこには二つの目的がありました。一つは傷つき倒れ力を失っている人々を力づけ、励ますこと。それによって人が立ちあがって天の父が望まれる道を歩むことを願われたことです。そしてもう一つは、私たちが御父へ向かい、御父につながるための道を明らかにするということです。私たちと共にいて、私たちが御父に向かって歩み生きるその中に、真の喜びと私たちの救いがあることを表してくださったのがイエス様です。そのイエス様の思いは今も変わっていないと思います。


今日の第一朗読と福音で共通するテーマは、それを行うことが無駄であるか無駄ではないかということにあります。第一朗読のイザヤの預言では、「雨や雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。・・そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。神様の口から出る言葉は、むなしく戻ることは決してありません。必ずその望みを成し遂げます。


福音のイエス様が語られた種蒔きのたとえはどうでしょうか。そしてイエス様はこのたとえで何を私たちに伝えようとされたのでしょうか。このたとえ話にあるように当時のパレスチナ地方の農夫が行う種蒔きのやり方は、日本のやり方とは違っていました。日本では畑をきちんと耕してその耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるやり方をします。このように種を蒔くことで少しも種が無駄にならないようにします。しかしパレスチナでは、土を耕す前に一面に種を蒔いて、その後にその土を掘り起こすようしていきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと後で掘り起こすので問題にしないで一面に種を蒔きます。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナは日差しが強いので、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからです。このやり方は日本とは違って蒔く種が無駄になります。でもこの地方ではこのやり方が一番土地に合う方法だそうです。イエス様はそのようなやり方をよく御存知の上で、その農夫の種の蒔き方に注目されながらこのたとえを話されたのです。種蒔く人が石ころがあっても茨が生えていてもかまわず惜しみなく種を蒔いたように、イエス様もみ言葉の種を惜しまず蒔かれるということをこのたとえを使っておっしゃりたかったのです。


当時イエス様は小さき人々、貧しい人、苦しんでいる人をまず大事にしていかれました。町や村をめぐって一人ひとり病人に手を置いていやされるというあえて手間のかかる方法を大切にされました。決して効率とか要領のよさとかを重視されませんでした。それが当時の指導者や権力者たちからは理解されず、ばかにされる経験もされたと思います。そのような状況の中で、イエス様はあえてこの種蒔きのたとえ話をなさり、一見無駄に見えても種を蒔き続けること、そして要領よく見えないことでもかえってそれが大事なのだとお示しになられたかったのだと思います。そしてその無駄に思えることを通して、必ず大きな実を結ぶことも明らかにされようとされたのです。


無駄に種を蒔いたように見えても、必ずそれを受け止めてくれる良い土地が必ずあって、それらを通して大きな実りを得ることができる。このメッセージは、現代を生きる私たちにもつながっています。私たちも信仰を持って、神様を信じて日々歩んでいても、時にこれが本当に正しいのだろうか、神様は本当に働いておられるのだろうかなどの思いがよぎってもおかしくありません。私たちは、洗礼を受けていても、まだ完全なかたちで神様と一致しているわけではありません。私たちにとって完全な救いはまだ将来の事として希望し続けなければなりません。それでも、その希望を持ちながら今を耐え忍び、生きることに大きな意味があることをイエス様はお示しになられたいのです。イエス様御自身も神の子でありながら、この世にあっては大きな苦しみを経験されました。それでも日々淡々と御父に向かって歩まれました。それが重い十字架を背負うことになったとしても、それを受け止められました。私たちはそのようなイエス様の姿を仰ぎながら、日々を歩んでいく必要があります。今を忍ぶことで、将来必ず大きな恵みに与ることができる。それを信じて歩むというのが私たちに求められている態度です。


今日の福音の後半にあるたとえ話の説明は、初代教会の人々がイエス様のたとえを分かりやすくするために考え加えたものだと言われています。私たちもイエス様の時代からかなり時間が経過した時代を生きています。それでも、今も私たちの心に響くイエス様が蒔かれるみ言葉の種を大事にしたいです。イエス様は今もみ言葉の種を私たちのために蒔き続けておられます。私たちがそのイエス様が蒔かれるみ言葉を一つでも大事にしていくことで、私たちもイエス様が望まれる実を成長させる良い土になっていきたいです。イエス様は今日も私たちにみ言葉の種を蒔き続けてくださるのですから。



 

 

 

 
 
 

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