2026年7月5日 年間第14主日
- カトリック戸塚教会

- 7月4日
- 読了時間: 4分
マタイ11:25-30
これは自分の経験から言えることですけど、何かうまくいかないことやつらいことを経験した時、そのことをただやり過ごすよりも、そのつらい状態が変わらなくても、何かそこに大事な意味を見つけることができたり、神様とのつながりの中で、神様がそのことをわかってくださっていると感じられる体験をしていくとき、そのことが一番力になる気がします。
神様御自身にふれる体験を通して、生きる意味を見出していくこと。神様の慈しみのまなざしに心の目を向けて、つらいことや苦しいことに出会っても、神様に心を開いて、神様に何でも話して歩んで行くこと。
私たちの本当の力の回復は、神様にふれて、神様の呼びかけに応えて歩もうとする時与えられるものです。ただじっとして何もしないのではなく、私たちの本当の力の回復を願ってくださる神様につながって、自分の力を人々のために使っていくとき、私たちは本当の意味で元気になり、喜びに満たされるのだと思います。
今日のミサの朗読で、第一朗読のゼカリヤの預言と福音書には共通するものがあります。それは、神の元から来られるメシアは、柔和で謙遜な方であるということです。ゼカリヤの預言には「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」とあります。メシアは立派な馬ではなく、柔和で謙遜な者の象徴であるろばに乗って来られます。旧約時代の人々が思い描いていたメシアの姿は、メシアがへりくだって、小さき者になって、苦しみを受けるというイメージはありませんでした。預言者ゼカリヤが預言者として初めてろばに乗って来るメシアの姿を表しました。そして実際にこの世にメシアとして来られたイエス様は、ろばに乗られ、御自分が柔和で謙遜な者であること、人々のために苦しみを受ける方であることを現わされました。
その柔和、謙遜であるイエス様が私たちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、おっしゃいます。当時の人々は、それぞれが重い重荷を背負って歩んでいたと思います。そのような人々に向かって「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃってくださったのです。その言葉が現代を生きる私たちにも有難く響きます。イエス様がわたしのもとに来なさい。休ませてあげようとおっしゃる。だから私たちも自分からイエス様に心を向けて行く。イエス様に近づいて行く。そしてイエス様が与えてくださる真の安らぎを味わう。それを大事にしたいです。
同時にイエス様は「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃいます。この「わたしに学びなさい。」というイエス様の言葉が大事なのだと私は思います。私たちが本当の力を回復するために、イエス様に学ぶことが必要だということです。
イエス様が神の子としてこの世に遣わされたのは、私たちに本当の安らぎを与えるためだと思います。そしてそのために大事なことがあることを教えてくださろうとされたのです。
軛は、聖書と典礼の下の段にある説明にあるように、二頭の動物をつなぐために動物の首にはめて使っていた道具です。畑を耕すために二頭の牛の首を軛を用いてしっかり固定していました。
イエス様は「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と、言われます。イエス様が負いなさいと呼びかけられるイエス様の軛は、イエス様の教えのことです。そしてイエス様の教えは人に重荷を与えたり、人を不自由にするものではありません。逆にイエス様の呼びかけに従って歩むことで、自分が解放され、自由になれるものです。
ある方が説明されていたのですが、二頭の動物をつなぐための軛も、それは動物を自由に動けないようにするためではなく、しっかりと二頭をつなぐことで、かえって動物は動きやすくなり、仕事もはかどったということです。軛と聞くと何かいやなものというイメージがありますが、実際はそうではないということです。
パウロは「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」と言います。私たちが神の霊が自分のうちに宿っていることを意識して、その神の霊、聖霊に心を合わせて歩むことで、自分が自由になる生き方ができるということです。またパウロが言う肉とは、神様に信頼せず、神様から離れて人間的な思い、人間的な力だけで生きようとする態度のことです。
イエス様は「わたしのもとに来なさい」とおっしゃいます。私たちがイエス様といつもつながって歩んでいることを意識していくなら、必ず神に由来する力が与えられます。その力が私たちに真の安らぎを与えてくださいます。
そのことを心から信じて、いつもイエス様に心を向けて日々の生活を歩んでいく。私たちに求められているのはそのことだと思います。
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