top of page

2025年8月24日 年間第21主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2025年8月24日
  • 読了時間: 5分

ルカ13:22-30

 

私たちの人生の一つの目的は、よき死を迎え、同時に天の父が招いてくださる天での宴に与らせていただくことにあると言えるかもしれません。この世を一生懸命生き、そしてその日がいつかわからないけれど、そしてそのために準備をしなければいけないことを受けとめながら、その時が来た時、恐れず喜びの心をもって天に向かって旅立ちたい。そのために今という時があるということを忘れないようにしたいということです。

 

今日の福音のイエス様の言葉のように、私たちがこの世の生を終えるとき、もしイエス様から「私はあなたたちを知らない」と言われるならとても悲しいものです。そしてそのとき私たちはこの話と同じように、いろいろな弁解もするだろうと思います。しかし私たちは希望し信じます。イエス様は決して私たちを知らないとはおっしゃらないと。それではなぜイエス様はこのような話を人々になさったのでしょうか。イエス様は天の国をよくそこで催される宴にたとえられます。その宴は、それに与るすべての人の心が満たされ、真の喜び、幸せ、平和が満ちあふれているということです。その宴では、今まで最も苦しみ、傷つき、周辺に追いやられてきた人々がまず大切にされるでしょう。そのような天の国での宴、そのすばらしい宴に与るように私たちは招かれています。そしてそのために今という時を、神様の望みに従って生きるようにイエス様を通して呼びかけられているのです。でも私たちは、もしかしたら、そのようなイエス様からの生きる呼びかけよりも、自分の願い、自分の思いが満たされることを第一にして神様に祈り求めるような態度を日々取り続けてしまっているのかもしれません。

 

イエス様がせっかくこの世に来てくださって、ご自分の姿で愛を生きるとは自分に死に、自分を与えて生きることであることを教えてくださったのに、私たちは自分の幸せを第一にして、自分中心の生き方をするようになってしまったのかもしれません。神様が私たちに命とそれを生きる時間を与えてくださったのは、その命の時間を、自分を与えて生きるために使い、それを通してこの世の中に真の平和と喜びをあふれさせてほしいと願ってのことだったと思います。でも、私たちはそのような神様の思いを忘れて、自分の思いのままに生き、それによっていろいろなしがらみにとらわれて生きるようになってしまったのかもしれません。神様の望みは、私たちが今、そのことに気づいて、もう一度神様の思いに心を向け直し、今、どのような態度を取って生きていったらよいか、そのことを神様の前に自分を置いて、祈りのうちによく見つめることです。

 

イエス様は、天で催されるすばらしい宴に与るために一つの条件を示されます。それは「あなたがたは狭い戸口から入るように努めなさい」というものです。この狭い戸口から入るように努めるとは、私たちがどのような生き方をすることでしょうか。どのようにすればその狭い戸口から入ることができるのでしょうか。私はそこには三つの鍵があると思います。その一つは、狭い戸口から入るために私たち自身がまず、より小さき者になるように努める必要があるということです。それはよりへりくだって謙遜な者になっていくことを意味します。二つ目は、狭い戸口から入るために私たちはイエス様が示されたのと同じ愛を自分の身にまとわなければいけないことです。愛といつくしみの心を実践すること。特に助けや力を必要としている人々に自分を与えて、愛を表していく必要があります。愛を示し、愛を生きて初めて狭い戸口から入ることができるでしょう。そして三つ目は、自分自身も神様の前では貧しき者であることを認めることです。自分も愛される必要がある。人から受け入れられ、愛され 、生かされる必要がある。それを素直に認めて生きることです。そして自分はまだ天の国の宴に与るのにふさわしい者ではないけれども、いつかその宴に招き入れていただきたいとの強い希望を持つことです。

 

今日の第二朗読で読まれたヘブライ人への手紙も味わいたいです。パウロは言います。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

 

イエス様は私たちにただ優しい言葉をかけられたわけではありません。イエス様の願いは私たち皆を復活のいのち、永遠の宴の喜びに招くことです。そしてそのために必要な生き方があることをお示しになるために、御父からこの世に遣わされたのでした。私たちが神様は優しく寛大な心の方だから、大丈夫なのだ、そんなに一生懸命生きる必要はないのだなどと感じているなら、それはイエス様の意を汲んだことにはならないでしょう。

 

私たちは時に、愛を生きるために鍛えられることが必要です。でもそれは希望のない鍛錬ではありません。愛を生きるために不可欠な自分に死ぬこと、自分を与えて生きること。それによって苦難を経験しても、その苦しみを愛によって受けとめ、それを捧げる生き方をすること。

私たちも様々な鍛錬、苦しみを経験しながら、イエス様がたどられた道を共に歩むことができるように祈りたいです。私たちの人生のゴールは天にあります。そこにある真の喜び、慈しみに満ちた神様が催してくださる宴に与らせていただくことを夢見て今を大事に生きたいです。

 

 
 
 

最新記事

すべて表示
2026年2月15日 年間第6主日

マタイ5:17-37   第一朗読で読まれた旧約聖書のシラ書は、紀元前2世紀頃に書かれたものです。そしてそのころのイスラエルは、他文化の影響を受け、伝統的な価値観や宗教心が失われる危機を抱えていました。人々は神様よりも人間の経験や知恵、自分たちの判断を重んじるようになっていました。でもイスラエルの民の原点はあくまで主を愛し、契約を守り行うことにありました。主を愛し、その道に従って歩むことが真に求め

 
 
 
2026年2月8日 年間第5主日

マタイ5:13-16   「あなたがたは地の塩である。世の光である。」イエス様の有名な言葉です。この地の塩である、世の光である言葉でイエス様は何を私たちに呼びかけておられるでしょうか。それを心に留めながらミサを共に捧げましょう。                かつて預言者イザヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚という憂き目から解放されて、祖国に帰ることができ、そこで主の栄光を味わう日が訪れることを預

 
 
 
2026年2月1日 年間第4主日

マタイ5:1-12   今日の福音の場面は、イエス様が群衆の前で初めて説教をなさった場面でいわゆる山上の説教と呼ばれているものです。その説教の中でイエス様は、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々は幸いであると言われます。心の貧しい人々とは、貧しさゆえに神様にしか頼るすべを持たない人々のことで、フランシスコ会訳聖書では「自分の貧しさを知る人」とされ、新共同訳ができる前の共同訳聖書

 
 
 

コメント


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page