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2025年12月14日 待降節第3主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 1 日前
  • 読了時間: 5分

マタイ11:02-11

 

第一朗読で預言者イザヤが荒れ野や荒れ地、砂漠に向かって「喜び躍れ、・・花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」と呼びかけています。荒れ野、荒れ地、砂漠は草花の生育には適さない場所です。一面に花を咲かせることはふつうは考えられません。なぜ預言者イザヤはこのような言葉を語ったのでしょうか。

 

預言者イザヤがこの言葉を語った時代は、人々の間に閉塞感が広がっていた時代だったと言えます。この時代は、バビロン捕囚からは解放され、神殿も再建されました。しかし約束されていた栄光は一向に見ることができません。慢性的な干ばつによって収穫は不安定なままですし、ペルシアによる支配もまったく揺らぎそうもない時代でした。そのような中で人々に預言者イザヤは「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる」と呼びかけたということです。救いの実現は、今すぐではないかもしれない。しかし必ず主の栄光と神の輝きを見る時が訪れる。だから雄々しく、恐れることなく忍耐を持って突き進んでいきなさいというメッセージを告げたのです。

 

私たちも同じかもしれません。イザヤの時代と同じように、今が救いの状態とは程遠く思えたとしても、それでも神様を信じ続け、今を生きることが求められています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」洗礼者ヨハネは繋がれている牢の中からこのような問いを自分の弟子たちを通してイエス様に投げかけています。なぜ、洗礼者ヨハネはそのような問いを自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。

 

洗礼者ヨハネが述べた「来るべき方」とは、ヨルダン川沿いのユダの荒れ野で、自分のもとに押し寄せてきた人々に向かって、「私の後から来られる方は、私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打ちもない」と述べた神の国の到来をもたらす方のことです。洗礼者ヨハネはその来るべき方の前に道を準備する者として、人々に悔い改めを呼びかけ、自分もそれを生きました。しかしその結果、牢獄の闇の中に囚われてしまいます。神様に向かってまっすぐな態度を貫いた結果、牢獄の苦しみを味わう身になります。強い心と態度を貫いてきた洗礼者ヨハネでさえ、自分が今まで信じてきたこと、貫いてきた生き方が本当に正しかったのだろうかという思いがよぎったとしてもおかしくありません。

 

私たちも同じかもしれません。神様を信じて自分も歩もうと決意していても、日々直面する様々な問題や、信仰をもって生きる生き方が一筋縄ではいかないという現実の中で、本当にこれでいいんだろうか、もっと他に生き方があるのではないだろうか、そのような思いがよぎります。そういう意味で私たちも洗礼者ヨハネと同じだということです。そのような洗礼者ヨハネに対してイエス様が答えられます。「行って、見聞きしていることを伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」これは、神様が望まれる世界が完成する時、全ての人にもたらされる救いの姿を表しています。

 

今はまだ、完全なかたちでその姿を現しているわけではない神の国。しかし、イエス様の到来と共にその救いの姿が示され、その救いが確かなものであるという希望を私たちは持つことができます。そして今という時は、第二朗読のヤコブの手紙にあるように、忍耐して待つ時なのです。「兄弟たち、主が来られるときまで、忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。」私たちの中には、イエス様がこの世に来られたのに、どうしてこの世界は闇の部分が消えてなくならないのだろう。どうして悪がはびこり、多くの苦しみを耐え忍ぶことが求められるのだろう。そのような思いが起きて当然です。

 

私たちも、時々わからなくなります。死を越えた世界への希望があるって、どんなことなんだろう。そこに向かって歩む中で味わう苦しみの意味と、その歩みをイエス様も共に歩んでくださっているって、実際にはどういうことなんだろう。手に取るように、神様の存在とイエス様の姿を実感したい。そうすればもっと人々は神様に耳を傾けるのではないか。そのように思う人も多くいるでしょう。私たちはどうしたら、もっと神様の心、呼びかけ、うながしを感じ取ることができるでしょうか。そして神様が共にいてくださるその慈しみを感じ取っていくために何が大事でしょうか。そしてその答えは、決して受け身では与えられない、自分の方から動いて、近づいて、心を向けて初めて実感できるものなのだと思います。

 

待降節も三番目の主日を迎え、来週は準備された4本のろうそく全てに火が灯されます。そして主の降誕の喜びの日がもうすぐであることを知らせます。苦しみの中を歩む中でも、神様にしかもたらすことができない喜びがあるということを、私たち一人ひとりが感じ取ることができますように祈りたいです。そして、今年も迎えるクリスマスの日が、本当の喜びの日となれますように祈りたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

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