2025年11月2日 死者の日ミサ
- カトリック戸塚教会

- 11月1日
- 読了時間: 4分
私は司祭になってよかったなと思うことの一つは、人の死に向き合うことができるということです。私は司祭になって今まで何人の方々をお見送りしてきたのかなと思うことがあります。正確に数えたことはありません。でもたくさんの方々の葬儀をさせていただいてきたことも事実です。そしていつも葬儀を終えた時、自分の心の中に残る思いは、この葬儀に関わることができて本当によかった、ありがたかったという思いです。祈りを共にできてよかった、お見送りを一緒にさせていただいてよかった。疲れは残りますが、疲れを超えて心が満たされる思いを何度もしたことがあります。
ある方とは、死が近いという状態の中でお話をさせていただいたこともあります。死という私たちにとって大きな現実に対して、どう向きあったらいいか。私たちは死を前にするとき、自分の小ささ、無力さを実感します。でもそれはとても大切な気づきなのだと思います。その無力さの中で、心からイエス様の存在を求める。イエス様にどうかこの私と共にいてください、私の側にいてくださいと願い祈る。その祈りがとても大事です。
私がよく思うことですが、人が息を引き取る時に「ありがとう」と言って自分の生涯を終えることができるなら本当にすばらしいと感じます。そしてできるなら自分もそうありたいと思います。私たちの死の現実というものは、多くの人が病室のベッドの上で苦しい息をしながら、最後の力をふりしぼりながら亡くなっていくということかもしれません。そしてそのような中で「ありがとう」などの美しい言葉、感謝の言葉を発して息を引き取ることができる人がいたとしても、それはとても恵まれた人だけだということかもしれません。それでもやはり気持ちとして、心のあり方として、自分の生きる最後を感謝の言葉をもって締めくくりたい。また最後の時でなくても、死が近く意識されたとき、まだ意識がある時、言葉が発せられるときに、「ありがとう」と言いたい。その気持ちを大事にしたいということです。このような思いはとても大事なことですし、また普段からそのような思いで生活していないと、なかなかその時そう言えないのではないかとも思います。
今日の福音のイエス様の言葉を見ていくと「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」とあります。私たちにとって大事なことは、この「永遠の命を得ること、終わりの日の復活に与る」ように自分もなっていくことです。そしてこれこそが私たちの人生の究極の目的です。永遠の命を得、復活に与る。そのための大切な鍵はやはりイエス様が何度も強調され、御自分の生きる姿で示された自分を与え尽くす愛の生き方であると言えます。最初にふれた「ありがとう」という言葉をもってこの世を締めくくり旅立つことができた人たち。その人たちはやはり生きている間からそのような思いを大切にして生きてこられたということです。
亡くなられた方々が私たちに伝えたい一番の思いは、「今を大事に大切に生きてください」ということだと思います。私たちが神様に自分を向け、神様が望まれる生き方を生きるように努めていくこと。キリスト教の特徴であり中心は、死を越えた永遠の命に与る希望があることです。愛のために自分を捧げていく生き方を続けていくこと。そしてその生き方を通して永遠の命に与ること。そしてその準備は今生きているこの場から始まっています。
イエス様御自身、苦しみを自分の身に負いながら、苦しみですべてが終わるのではなく、そこから新しい命が開かれていくことを、身をもって示してくださいました。十字架を経て復活の命に上げられることを表してくださいました。そしてまたイエス様はその姿で、弱さに力を失い倒れてしまう私たちのことを思い、支え、真の生き方、愛を大事にする生き方へと導こうとしてくださっています。
私たちはどんなにがんばっても、自分の力だけで完全なかたちで愛の生き方を生きることはできないでしょう。自分の小ささを認め、神様の前に素直な心でへりくだり、祈りの中で力を願いながら、自分を与える生き方を積み重ねていくこと。このことに心を向け、専念していくこと。これだと思います。
どうか私たちが今、自分が向き合っている現実から目をそらさず、しっかり向き合いながら、イエス様を通して示される永遠の命に与る道を、一歩一歩大事に歩んでいくことができますように祈りたいです。私たちが、今というこの時間が二度と繰り返されることがないということを思いながら、この時を大事にして生きることができるよう努めたいと思います。

コメント