2024年6月9日 年間第10主日
- カトリック戸塚教会
- 2024年6月8日
- 読了時間: 4分
マルコ03:20-35
第一朗読で読まれた創世記で、主なる神がアダムに向かって「どこにいるのか。」と尋ねます。この「どこにいるのか」という問いには、神様がアダムに対して無関心ではいられないという思いが込められています。アダムは女と共に禁じられていた果実を食べてしまいました。それは今までいただいていた神様とのよい関係を自ら壊してしまう行いでした。そのような人間を神様の方から関係を切ってしまうこともおできになられたと思います。でも神様は、人間がどんなに過ちを犯しても、御自分の方から関係を切ることをなさいません。いつまでも人間の立ち直りと御自分との関係を戻すことを待ち続けられます。それが神様のお姿だということです。
第二朗読では、パウロの手紙が読まれます。そのパウロが伝えることの中でパウロが体験から学んだ大きな事は、自分が弱さを認め、そこから神様に救いと力を求めていくとき、私たちは真に強い者に変えられるということです。私たち人間が持つ弱さは、神様の存在と働きを私たちが必要としている何よりの証拠です。人間である私たちは、神様の働きと支えなしに、この世を歩み通すことはできません。
同時に神様と心を合わせて歩むこの道の中で苦難を味わうことになっても、必ず栄光という真の喜びを味わうことにつながっていくこともパウロは示します。パウロは書きます。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(2コリ4:14-15)「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリ4:17-18)
私たちが人生で味わう艱難は、後に味わう栄光の重さに比べれば、比べ物にならないくらい軽いものだとパウロは断言します。このようなパウロが自らの神体験を通して私たちに語っているものを、私たちも自分のものにしていきたいです。
福音では、イエス様がなさった悪霊を追い出すという力ある業に対して、それをどう受け止めたかの違いが示されています。イエス様に近い身内の人々は、イエス様のことを聞いて取り押さえに来ます。それはイエス様が悪霊を追い出しておられることを、気が変になってしまっていると捉えたからです。また律法学者たちは、イエス様が悪霊を追い出しているのは、悪霊の頭の力を使って行っているとし、イエス様を悪霊の手下としています。いずれもイエス様の真の姿を理解してはいません。誤った思い込みと先入観でイエス様のなさることを見てしまっています。
私たちも下手をすると同じようなことをイエス様に対して行っているかもしれません。
イエス様が何のためにこの世に来られ、何を私たちに伝えようとされたか。そのことに目を向けることなく、都合よくイエス様の持っておられる力を利用しようとする態度を取っていないでしょうか。洗礼を受けるのも、教会に来るのも、ミサに参加するのも、あくまで自分中心の思いの実現のためになっていないでしょうか。この部分は、一人ひとり自分のあり方、自分の信仰の中身を吟味していかなければいけないと思います。
イエス様は今日の場面の最後で、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われます。イエス様は血のつながりではなく、行いを通して誰もがイエス様と家族となれることを示されます。その行いにおいてはイエス様に従って自分を放棄し、自分を他者のために与えていくあり方が求められるでしょう。そこには十字架を積極的に背負うことも求められるでしょう。
今の世界の中で、自分のための家庭を持つことを放棄して生きる人々がいます。家庭を持つこと、家庭を持たないこと。いずれの生き方であっても、神様につながる真の家族として生きることがイエス様からの招きです。分裂や対立に苦しむこの世界にあって、神様から来る真の喜びを目指して、互いに神様の家族として生きる生き方を私たちも祈り求めていきたいです。マリア様は神様のみ旨を第一にして生きられた方です。その方を母として仰ぎ、いつも神の家族として生きる生き方をしていきたいと思います。
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