マルコ09:30-37
私たちは教会を訪れミサに与ります。私たちの心にはそれぞれ思いがあり、その恵みを願いたいと思っている人も多いと思います。恵みそして力を願いたい。そのために神様に近づいていく。それも大事な神様とのつながり方です。でも神様は、私たちの思い通りに何でもそのまま与えてくださる方ではありません。神様は私たちが、神様が望まれる心を持って願い求めることを望んでおられます。神様が望まれる心とは、高慢な者にならず、謙遜な者になること。その心で神様に近づくことです。イエス様が表してくださった真の生き方とは、十字架の死を経て復活する生き方でした。十字架の道を歩まれたイエス様御自身が、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」となられた方でした。イエス様に倣って「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」になっていくこと。そのために必要な苦しみであればそれを引き受け、捧げる。そのような生き方通して私たちも復活に与ることができます。
現代を生きている私たちの状態は、多くの者が力を失い、またどのように生きたらよいか、その生きる道筋が見えなくなってしまっていると言えます。そのような私たちを真のいのちにつながらせたい。そのための生き方を伝えたい。それがイエス様の今も変わらない私たちへの思いです。そしてイエス様の招きは、失うことによって逆にいのちを得る生き方への招きです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」仕えられる者ではなく、仕える者になる。それがイエス様が示される生きる者の姿です。
第一朗読で読まれた知恵の書では、神様を信じない者の生き方が述べられていました。どうせ死ぬのだから、死によってすべてが終わるのだから、生きているうちに快楽にふけろうと考える生き方です。そして同時に神に従う人の存在を疎ましく思って、彼らの言葉が真実であるか試すために、神に従おうとする人々に暴力と責め苦を加えます。神に従う人たちの言葉が真実であるなら、神が助け、救い出してくれるはずだと考えたからです。それに対して、第二朗読で読まれたヤコブの手紙には、「上から出た知恵」がどのようなものであるか、述べられています。「上から出た知恵」すなわち神様から出た知恵は何よりもまず、純真で、更に温和で、優しく、従順なものです。憐みと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。人間の間に戦いや争いが起こるのは、この上から出た知恵に従わずに、それぞれ人間の欲望に振り回されるからだとヤコブは教えます。
イエス様自身もこの上から出た知恵、神の知恵を生きられます。そしてその知恵を生きる態度の頂点が、十字架につがる道を生きるという姿でした。イエス様も、御自身のことのみを考えるなら、十字架にかかり命を捧げる必要はなかったと思います。もっと平穏で安全な生き方をされることもできたでしょう。でも、イエス様は人に仕えていく生き方、十字架につながる生き方を選ばれます。弟子たちが途中で誰が一番偉いか議論しあっていた時、イエス様は「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われます。「いちばん先になりたい者は、最後の者になりなさい」。これは、私たちの価値観を逆転するようにとの呼びかけです。それまで弟子たちが持っていた人生の価値は、自分の幸せ、社会的な成功、自分の生きがいの充実などへの欲求だったでしょう。でもそこにとどまるだけでは、真の喜びがある人生を生きることにはならないというのが、イエス様からの呼びかけです。
私たちにとって大事なことは、「人に仕えていくこと」そこに喜びがあるということを自ら体験していくことです。頭の知識だけで終わらずに、実際に体全体で感じ取っていくことです。自分をただだめだと思いあきらめるのではなく、自分のふだんの生活の中に小さな、人に仕える生き方を見つけて、それを大事に歩むことです。イエス様の招きは、いつもこの、人に仕える、愛を生きる生き方への招きです。時にそれが自分にとって十字架を生きることが求められるかもしれません。でも、イエス様もその道を歩まれました。そしてその十字架が必ず復活のいのちにつながることも表してくださいました。
私たちはいつもそのイエス様に力を願うことができます。そしていつも共に歩んでくださることを信じることができます。ミサに与ることは、そのイエス様につながることを意味しています。今日、このミサに与っている私たちが、もっとイエス様を意識して、イエス様と固く結ばれて歩んでいくことを祈り願いたいです。そしてその私たちの祈りをイエス様も喜んで聞き入れてくださることを信じます。
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