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2024年8月4日 年間第18主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2024年8月4日
  • 読了時間: 5分

ヨハネ06:24-35

 

私は最近よく思います。それは私たちがもっとイエス様を大事にする。イエス様を大切に思う。そしてそれをただ思うのではなくて、実際に行いで表すということです。例えば、この自分が今日ミサに来たのは、自分のためではなく、イエス様を大切にしたい、自分がミサに与ることをイエス様が喜んでくださる、その思いで来たと言えるようになることです。教会の入り口を入る時、聖堂の中に入る時、心の中でイエス様にあなたに会いに来ましたと語りかけてみる。そのような心の態度を大事にしてみる。イエス様も心を持っておられる方ですから、私たちからのそのようなイエス様に対する心の態度をどれほど喜んでくださるでしょう。イエス様を、自分の願いに応えてくださる方としてだけ仰ぎ見るのではなく、イエス様の存在を大切に思う信仰へと深めていきたいです。

 

今日の福音でイエス様は言われます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」先週の福音は、イエス様が五千人の人々にパンを与え満腹させられた場面でした。群衆はイエス様を捜し求めてやって来ますが、それは再びパンを求めてのことであって、イエス様の言葉を求めるためではないとイエス様は見抜かれています。

 

イエス様は様々な場所で病人を癒したり、パンを増やしたりなさいました。群衆は、それらの出来事を目の当たりにして、イエス様を捜し求めるようになります。イエス様のもとにたくさんの人々が押し寄せてくる。そのこと自体、決して悪いことではありません。しかしイエス様は言われます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

 

群衆が求めていること、それはパンを食べて満腹すること、自分が満たされることです。そうであれば、自分が満足したらまたイエス様の元を離れていくでしょう。そしてまた何かが足りなくなったり、満たされなくなったとき、再びイエス様の元を訪れるということを繰り返すでしょう。その群衆の判断の基準は、あくまで自分です。自分が満たされるかどうかということです。現代を生きる私たちも同じようなことを繰り返しているかもしれません。信仰も自分のためで、自分の都合が第一になってしまっている。自分が満たされること、自分の思いがかなうこと、それだけが信仰の目的になっている。群衆がイエス様のなさる奇跡だけを追い求めていた姿と今の私たちを比べて、私たちはそこに違いを示せるでしょうか。

 

イエス様は人々の前でたくさんのしるしを行われました。その一つひとつのしるしには意味が込められていました。病人を癒されたのも、天の父が憐れみ深く慈しみ深い方であること、苦しみを抱えている人々の側にいてくださる方であることをお示しになるためでした。神様の恵みによって病が癒された人もいたでしょう。そしてその癒しはその人が神様を賛美して、イエス様に従って生きるようになるための癒しでした。決して病気の苦しみから解放されて、自由になって、それから自己満足を求め、神様から離れた生活を送るためではありませんでした。イエス様がなさった力ある業、そのしるしの奥に、私たちに感じ取ってほしい、学んでほしい神様からのメッセージが込められていたということです。

 

自分の苦しみ、抱えている問題が無くなることだけを求めて、イエス様に近づくだけなら、イエス様の時代の群衆と何ら違いがないことになります。自分の切実な願いを祈りとしてイエス様に捧げていけないということではありません。私たちは皆、心の中に叫びを持っています。叫びを抱えながら生きています。でも同時にその叫びを祈りに変えながら、イエス様が導こうとしてくださる道に自分もイエス様と共に進んで行こうとすることが大事です。

 

イエス様が私たちに自分のものにしてほしいと願っておられるものは、いつかは無くなってしまう物質的な満たしではなく、永遠の幸いとなる永遠の命に結びつくものです。イエス様は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という人々の問いに対して「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と答えられます。神がお遣わしになった者を信じる、神の独り子であり、神の言葉となってくださったイエス様を信じる。それは言葉を換えて言うなら、自分の思いを第一にするのではなく、イエス様の思いを第一にする、そしてイエス様そのものを信じる、イエス様が私たちに向けてくださる心のありがたさ、すばらしさを信じきることです。

 

イエス様がもたらそうとされる永遠の命の世界は、私たちが地上で想像している幸せというものをはるかに超えているでしょう。物質的に不自由さのない生活、病の苦しみがない生活、人間関係からくる煩わしさのない生活、どれもこの世で生きる上で私たちが願いたくなるものです。でもそのような人間の願望を超えて、イエス様が表してくださった永遠の命に至る歩みをこの世にあって歩んでいくこと、それが私たちにとって一番大事なことです。

 

イエス様の姿は私たちの目で直接のかたちでは見ることができません。でもイエス様は見えないかたちで私たちのそばにいてくださる方です。そして私たちを真の幸せにつながる生き方へとうながしてくださる方です。私たちがこれからもイエス様を大切に思って、イエス様と共に歩んでいけるように祈りたいです。そしてその生き方こそ私たちにとって一番よい生き方なのだと信じます。

 

 

 

 
 
 

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