top of page
検索

2024年8月18日 年間第20主日

執筆者の写真:  カトリック戸塚教会 カトリック戸塚教会

ヨハネ06:51-58

 

皆さんは、浅はかな者と聞くとどのような者を思い浮かべるでしょうか。物事をよく見つめることなく、その時の思いや感情だけで行動してしまう者。目先の利益に振り回され、本当に大切なことに目が向かわない者。そのような者を浅はかな者と言うことができるかもしれません。第一朗読で読まれた箴言には、「知恵」と「愚かさ」が対応して登場します。「知恵」と「愚かさ」が人間の姿をとり、浅はかな者に呼びかけ、それぞれの宴会に招くという設定になっています。

 

知恵が用意する食事にあずかる者には命が約束されます。知恵のもとに来て、用意されているパンとワインを飲む。その中で浅はかな者はいやされ、その浅はかさを手放してゆきます。そして知恵が示す教訓を学ぶならば、浅はかな者は真に生きることを始め、いのちの道を歩み始めることになります。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」と言われているように、この知恵の食卓、いのちへの道はどんな人にも開かれています。この浅はかな者とは、知恵を知ることなく十分に教育されていない人を指します。浅はかな者は、知恵と愚かさのどちらの食卓を選択するかによって、その後の歩みが決定づけられます。知恵の招きに応える者は「命を得る」ことになりますが、愚かさの食卓につく者は「深い陰府に落ちる」ことになります。神様の前にあっては、私たちはまだ十分に教育されていない者のようであり、浅はかな者かもしれません。しかしそれは知恵の食卓を選び取るようにとの招きだと言うことです。

 

主であるイエス様を通しても同じ招きの言葉が呼びかけられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51)主であるイエス様御自身が食卓を用意してくださいます。そしてイエス様が言われる「このパンを食べるなら」とは、私たちがミサの中でいただく御聖体のことだけではなく、御聖体と共に、イエス様が語ってくださった御言葉を私たちの命の糧としていただくということです。

 

よく御言葉を食べるという言い方をします。イエス様が語ってくださった御言葉に触れ、イエス様の御言葉を心に刻み、生きた糧としていただくことです。御言葉はイエス様そのものであり、御言葉の中に命があり、その中にイエス様はおられます。イエス様の体がしっかりと自分のものになっているかどうかは、やはり私たちの心や態度を見ればわかります。意識せず、ただ何となく生きていたり、無感覚で御聖体をいただいたり、イエス様が話された御言葉を聞き流したりしているなら、最後までイエス様がお伝えになられたかった本当の生きる意味、本当の幸せを知ることなく、生涯を終えることになってしまいます。

 

私たちがこの世での歩みを終え、神様の元に迎えられた時、あなたは御言葉を食べて人生を歩みましたかと神様から聞かれたら、皆さんはどのように答えられますか。自分はミサに与り、御聖体をいただくことを大切にして人生を歩みましたと答える方もおられるかもしれません。でも御聖体をいただいても御言葉を食べることを大切にしなかったなら、本当の意味でイエス様をいただいたことにはなりません。

 

皆さんの中には聖書は難しくて自分で読んでもわかりませんという理由で聖書に近づくことをしない人がおられるかもしれません。聖書を持っていても開くことなく人生を終える人もおられるでしょう。でも私は思います。イエス様が残してくださった御言葉を少しずつでよいので大切にするように一人ひとり努めましょう。そして御言葉の意味がわからないと思う時は、私が毎回ミサのために書いている説教のプリントの言葉を助けとして使ってください。

 

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」御自分を天から降って来た生きたパンとされ、このパンを食べる人は永遠に生きる、永遠の命に与ることを約束されたイエス様。そのイエス様を信じ、イエス様が与えてくださる御聖体と御言葉を食べて生きる。イエス様としっかりつながってこの人生を歩む。その歩みを通してイエス様は信じる者に永遠の命を約束してくださいます。

 

今日、この御言葉を聞いた私たちがイエス様の体である御聖体とイエス様が残された御言葉を命の糧としていただき、生涯を終える時、神様の前で私はイエス様をいただくことを大切にして人生を歩むことができましたと言えるようになりたいです。

 

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

 

 

 

 

 

 
 
 

最新記事

すべて表示

2025年3月30日 四旬節第4主日

ルカ15:01-3、11-32   このたとえ話の中心は何といっても父の姿です。その姿を見つめ心に刻むだけでもよいのです。弟がしてしまったこと、また兄の態度がどうであるかということに目をやるよりも、ひたすらこの父の姿と心に目を向けたいです。父は何一つとがめませんでした。甘や...

2025年3月23日 四旬節第3主日

ルカ13:1-9   私たちは、災害や病気、様々な不幸に直面する時、それを人間の罪の結果だとするとらえ方をします。また神様がおられるのなら、なぜこんな悲惨なことをお許しになるのだろうかと、災害や禍をあたかも神様の意志で行われているかのように見る傾きもあります。しかし、実際に...

2025年3月16日 四旬節第2主日

ルカ9:28b-36   イエス様は度々弟子たちに御自分が受ける受難について予告しておられました。ご自分がエルサレムで多くの苦しみを受けて、殺されることになっていること。弟子たちはそれを聞いた時、大きなショックを受けたでしょう。そして不安と恐れも感じたでしょう。そのような中...

Comments


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page