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2024年8月11日 年間第19主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2024年8月11日
  • 読了時間: 4分

ヨハネ06:41-51

 

私たちは生きるためにやはり食べるということはとても大切なことだと思います。決してぜいたくな物でなくても、愛情がこもり、おいしく調理された食べ物を食べることができたら、人は幸せに生きていけると思います。私は以前フィリピンを訪問したとき、そこで働く人々の朝ごはんの光景を目にしたことがあります。白いごはんをお皿に盛って、そのごはんの横に少しの塩辛い魚を置いて、その魚の塩味をおかずにして白いご飯を食べる。決してぜいたくではありませんが、とてもおいしそうに皆が食べていました。またある家庭では白いご飯ににんにくを少し入れて油でいためて、ほんの少しのソーセージをおかずにして食べていました。にんにくの香りがご飯にまざってとてもおいしい朝ごはんになっていました。

 

食べ物は私たちの体に入り、私たちの血と肉になって、私たちを生かしてくれます。食べるということは、私たちに力を与え、私たちを支えます。同時に私たち人間は、食べる食べ物だけではなく、心にも食べ物が必要です。よく心が満たされるという言い方をします。どんなに食べ物を食べても、それだけで心が満たされることはなかなかないでしょう。私たちの心の飢え、心の渇き、それは何によって満たしていったらよいでしょうか。一番よいのは、人のあたたかな愛情にふれることです。人の親切な言葉や、よくしてくださる姿や行いによって私たちの心は満たされ、力をいただきます。そしてそのことは、同時に自分も人に対してそのような行いに招かれていることも表しています。不思議なことに人間はただ受けるだけでは生きていけません。自分も同じように人に与えることができてはじめて生きる力がみなぎります。私たちがありがたく人から受けると同時に、自分も人に与えることができる人になっていく。それらを通して、自分が人の喜びになっていける。それが本当の意味で自分が満たされるということです。

 

イエス様は、「わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」と言われます。この「このパンを食べるなら」とは、私たちがミサの中でいただく御聖体と共に、イエス様が語ってくださった御言葉を私たちの命の糧としていただくということです。イエス様の体がしっかりと自分のものになっているかどうかは、やはり私たちの心や態度を見ればわかります。意識せず、ただ何となく生きていたり、無感覚で御聖体をいただいたり、イエス様が話された御言葉を聞き流したりしているなら、最後までイエス様がお伝えになられたかった本当の生きる意味、本当の幸せを知ることなく、生涯を終えることになってしまいます。

 

イエス様が十字架に架かる前の晩に、弟子たちと一緒に最後の食事をされたことを私たちは知っています。そしてその食事の席にあったパンとぶどう酒に向かってイエス様はこれは私のからだ、私の血であるとおっしゃいました。そしてこれを私の記念として行いなさいと言われました。それはこれから弟子たちがイエス様が言われた通りパンとぶどう酒の祭儀を行うとき、そのパンとぶどう酒の中にイエス様が共にいてくださり、私たちとつながってくださることを表します。イエス様があえて食べ物、飲み物の中にご自分の命を残すことを定められたのは、私たちの生活の一番近い部分で私たちとつながり続けることを願われたからでしょう。神の子である方がご自分の体を命のパンとして与えてくださったことは、私たちの常識、理解の枠を超えています。それでも、それを信じ受け入れ、その命が力として私たちの中に息づいていくように願いたいです。

 

イエス様は言われます。「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」御自分を天から降って来た生きたパンとされ、このパンを食べる人は永遠に生きることを約束されたイエス様。そのイエス様を信じ、イエス様が与えてくださる御聖体と御言葉を食べて生きる、イエス様としっかりつながってこの人生を歩む。その歩みを通してイエス様は信じる者に永遠の命を約束してくださいます。今日、この御言葉を聞いた私たちがイエス様の体である御聖体と御言葉を命の糧としていくことができますように願いたいです。そして御聖体を拝領するだけでなく、イエス様が語り残してくださった御言葉を大事に心に留め、それを生きるために、日々イエス様の御言葉に触れ続けることを大切にしていきたいと思います。


 
 
 

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