top of page

2024年6月2日 キリストの聖体

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2024年6月1日
  • 読了時間: 4分

マルコ14:12-16,22-26

 

イエス様はパンを取り、それを弟子たちに与えて言われます。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて彼らにお渡しになって言われます。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」パンとぶどう酒がイエス様の体と血になるということ。普通では考えることができない、でもイエス様は、はっきりとそうおっしゃり、「これをわたしの記念として行いなさい」と言われます。そして教会はそのことを忠実に2千年という時間を経ても変えることなく今も続けています。

 

それではイエス様はどのような思いで、この御聖体の制定をなさったのでしょうか。どのような思いをそのご聖体に込められたのでしょうか。イエス様はきっと、許されることならもっと弟子たちと共に過ごしたい、まだまだ伝えたいことがたくさんある。でも今はもう時間がない。そのようなぎりぎりの状態の中で、イエス様は食卓の上にあった食べるためのパンとぶどう酒に向かって「これはわたしの体である。これはわたしの血である。これを私の記念として行いなさい。」と言われたのだと思います。パンとぶどう酒の中に御自分のいのちを注ぐ。そうすることで、これから弟子たちがこの晩餐の祭儀を繰り返す時、彼らに御自分のいのちを与えることができる。そのように思われての御聖体の制定だったということです。

 

この晩餐の祭儀が繰り返される聖堂の中心に位置する祭壇。この祭壇には元々どのような意味があったのでしょう。旧約時代に遡れば、祭壇は神様に祈りを捧げる時、祈りと共に献げるいけにえを置くための場所でした。また、契約を結ぶ時、その契約が命をかけた契約であることを表すために、血を流してその血が祭壇に注がれました。祭壇とはそのような場所であり役割をもっていました。イエス様がご自分の体をご聖体として残されたときも、そのような献げられるいけにえと、血を流しての契約という意味も込められていたと思います。

 

イエス様が最後弟子たちとされた食事は過越の食事と呼ばれるものでした。過越の食事とは、かつてイスラエルの先祖の民が経験した出エジプトの出来事と関係します。イスラエルの民はエジプトで経験した多くの苦しみの中から神に向かって叫び声を上げ、その祈りが神様に届きました。そして神様はモーセを遣わしてイスラエルの民をエジプトから脱出させられます。その出発の晩、それぞれイスラエルの民のいる家の戸口にほふられた子羊の血が注がれました。それが目印となってその家は滅びから免れることができました。そうやってエジプトを脱出した民は、神様の大いなる救いの力を経験しました。そしてずっとこの出来事を忘れないために、毎年過越祭を祝いました。イエス様が弟子たちとされた最後の晩餐もちょうどこの過越祭の中での食事だったということです。

 

イエス様はご自分の体を聖体として残される時、あえてこの過越の食事につながりをもたせられたのだと思います。イスラエルの民がエジプトを脱出するとき、各家の戸口にほふられた子羊の血がふりかけられました。その血が目印になってイスラエルの民は滅びから救われました。

イエス様はそのことを念頭に置かれながら、これからはいけにえのための子羊をほふる必要はもうないのだ。ご自分がそのほふられる最後の子羊になってくださって、その流される血をもって救いの業を行ってくださるということです。

 

イエス様が十字架の上で流してくださった血によって私たちも救われています。私たちはまだ十分、そのことを実感できていないかもしれません。それでも私たちの理解や思いを越えて、神様はイエス様の血によって私たちと新しい契約を結んでくださり、私たちを罪の暗闇から救いあげてくださったということです。

 

私たちに今求められることがあるとしたら、それはイエス様が私たちのためにしてくださったこと、血を流して新しい契約を結んでくださり、御自分のからだをいのちの糧として私たちのために残してくださったその深い意味を少しずつ自分のものにし、感謝を捧げ、同時にイエス様が望んでくださる生き方を大事にして、それを通してイエス様につながっていくことだと思います。

 

私たちが、このご聖体の中に共にいてくださるイエス様の思いを心で感じ、イエス様の心に応えて歩むことができるように日々の生活を大事にしていきたいです。同じ祭壇を共に囲む私たちが互いにつながりあい、イエス様を囲む一つの輪、一つの共同体になっていくことを、今日、キリストの聖体の主日にあたって祈りたいと思います。

 
 
 

最新記事

すべて表示
2026年2月15日 年間第6主日

マタイ5:17-37   第一朗読で読まれた旧約聖書のシラ書は、紀元前2世紀頃に書かれたものです。そしてそのころのイスラエルは、他文化の影響を受け、伝統的な価値観や宗教心が失われる危機を抱えていました。人々は神様よりも人間の経験や知恵、自分たちの判断を重んじるようになっていました。でもイスラエルの民の原点はあくまで主を愛し、契約を守り行うことにありました。主を愛し、その道に従って歩むことが真に求め

 
 
 
2026年2月8日 年間第5主日

マタイ5:13-16   「あなたがたは地の塩である。世の光である。」イエス様の有名な言葉です。この地の塩である、世の光である言葉でイエス様は何を私たちに呼びかけておられるでしょうか。それを心に留めながらミサを共に捧げましょう。                かつて預言者イザヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚という憂き目から解放されて、祖国に帰ることができ、そこで主の栄光を味わう日が訪れることを預

 
 
 
2026年2月1日 年間第4主日

マタイ5:1-12   今日の福音の場面は、イエス様が群衆の前で初めて説教をなさった場面でいわゆる山上の説教と呼ばれているものです。その説教の中でイエス様は、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々は幸いであると言われます。心の貧しい人々とは、貧しさゆえに神様にしか頼るすべを持たない人々のことで、フランシスコ会訳聖書では「自分の貧しさを知る人」とされ、新共同訳ができる前の共同訳聖書

 
 
 

コメント


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page