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執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2024年1月21日 年間第3主日

マルコ01:14-20

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」イエス様が宣教の始めにこう言われたこの言葉を、私たちは現代においてどのように受けとめたらよいでしょうか。今の自分にとって福音を信じるとは何を意味するでしょうか。パウロはコリントの教会への手紙で「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。」と言います。パウロはこの時、本当にこの世の終りが迫っている。そのような大事な時に私たちはいるのだから、私たちは皆、自分の在り方を見つめ直さなければならない。そのような思いでパウロはコリントの教会の人々に語ったのだと思います。

 

第一朗読のヨナの預言でも、ヨナはニネベの人々に向かって「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫び、人々に回心を呼びかけました。ここで私たちも考えたいのですが、もしここにヨナと同じような人物が現れて、あと40日すれば、私たちは滅びると預言するなら、私たちはどうするでしょうか。多くの人々の反応はまともにそのような言葉を信じる人はいないということでしょう。確かに誰もそのような滅びの預言を言い表すことはゆるされていないし、信じる人もいないということだと思います。でもこの世の終わり、いわゆる終末という出来事がいつであるかわからなくても、大事なことはいつでもそのような気持ちで、神様の呼びかけに耳を傾けていくこと、応えていくことだと思います。世の終わりがいつかわからなくても、自分は自分として自分の在り方を見つめ直して、本当に大事なことを大切に生きていきたい。今まであまりそのようなことをまじめに考えることはしてこなかったけれど、今は少し落ち着いた気持ちでいろんなことを振り返って神様の言葉に目を向けて歩み直していきたい、そのように思う人は多いと思います。

 

イエス様がおっしゃった「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉はいつの時代の人々にも向けられている大事な言葉です。このイエス様の言葉を、もうすぐ世の終わりが来るから、恐ろしいことが起こるから、その時苦しんだり困ったりしないように、私に従いなさいというように受けとめるべきではないでしょう。イエス様は人々に恐れを与えるかたちで教えたり話されたのではありません。逆にイエス様は喜びの心をもって、すばらしいいのちの世界があるから、そこに皆を招きたいから、導きたいから私は話しているのだ。そのような心で人々に語ってくださったと思います。誰も知らない、経験したことがない天の父が準備してくださるすばらしいいのちの世界があること。そこに向かって皆、歩む必要があること。その歩みをイエス様も共に歩んでくださるということ。

 

イエス様はご自分の働きを始められる時、ご自分の周りに弟子たちを呼び集められました。弟子たちはイエス様の呼びかけに応えて、自分の仕事や家族を置いて、イエス様に従いました。この弟子たちの態度は、神様が準備される永遠の命の世界の在り方を示していると言えます。私たち人間は、人間の幸せとか価値を人間的なものさしで考えます。物はないよりはあったほうがよい。お金は少ないより多い方がよい。病気より健康の方がいいし、結婚しないより結婚できたほうがよい。いろんな思いが私たちの中によぎります。でも、イエス様の招きは人間的な思いを越えた永遠のいのちへの招きです。いろんなことがあっても、苦しみや困難を経験しても、自分の心が解放されている。心が軽くなって心の中が落ち着きと平和で満たされている。人間的な思いや価値観から自由になって、神様と自然に心が触れ合うことができている。物事を前向きに考えることができ、現実の様々な出来事と向き合い、その出来事に翻弄されながらも心が大きく豊かになれている。私たちはこの世の中で生きているので、どうしても人間的な考えや社会の捉え方に影響を受けます。これはこうあったほうがよい、これがあったらだめだ、人間の狭い枠組みの中で物事を計り、生き方と幸せを決めてしまっています。それが私たち人間の姿です。でもイエス様は、もっと大きな世界へ私たちを招こうとしてくださっているのだと思います。

 

私も自分のことを考えるなら、司祭になろうと思ったのも、不思議な神様の呼びかけと自分の中での不思議な心の動きがあったからだと思います。仕事とか結婚とかを越えて、もっと大きな究極の幸せの世界がある。そしてなぜ自分かわからないけれど、神様はこの自分を通して働かれたいと思っておられる。その神様に自分を差し出して、これからつらいことがなくなるわけではない、もっとちがった十字架を背負うことになるかもしれない。それでも神様はよかれと思われることに自分を呼んでくださっている。そのような心、思いに自分の一生をかけたんだと思います。私もまだ完全に究極の喜びの世界を味わっているわけではありません。それでも感じていることは、神様は心の中に味わいを通して答えを与えてくださるということです。

 

いろんなことがあっても、心の中に落ち着きと平安があって心が満たされている。神様とつながって歩むことが一番自分を解放してくれる。そんな心の味わいが自分を導いてくれています。いつも心の中が平安と落ち着きで満たされることができる在り方の方を選ぶ。神様の心に適う選択をするとき、必ずその後でこれでよかったのだと思うことができる。そのような生き方の選択をしていきたいです。イエス様が「わたしについてきなさい」と弟子たちに言われた言葉は、今でも重みをもって私たちにも向けられています。私たちもそのイエス様の呼びかけに、精一杯の心をもって応えていきたいです。

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