ルカ03:01-6
待降節も第二の主日を迎えました。私たちの心が待降節のろうそくのように少しずつ照らされて喜びの心で主の降誕を迎える準備ができますように祈りましょう。クリスマスを迎えるための準備をする待降節の一番よい過ごし方は、自分自身を含めて世の中にある闇の部分を意識していくことだと言われます。自分の中にある闇、そして社会の中にある闇、そこにどんな闇があるか見つめていくことです。自分の中、そして自分の周りにある闇を意識している人こそ、そこに光として、救い主として来てくださる神の御子の本当のありがたさがわかります。
今日福音に登場する洗礼者ヨハネは荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。荒れ野は生きるのに険しく試練が課せられる場です。でも同時にその中で真に頼るべき方、目を向けるべき方が誰であるか見つめることができる場所でもあります。誰もが荒れ野を通過することで、自分自身の弱さ、小ささを素直に認めること、それを通して私にはあなたが必要ですと自分の心を神様に向けていくことです。イエス様が私たちから聞きたい一番の言葉は、この「私にはあなたが必要です」という言葉だと思います。真の悔い改めとは自分のありのままの姿を見つめ、そこから神様に心を向けていくことです。私たちが立派な行いをしているから神の独り子がこの世に誕生してくださったのではありません。それは神様からの無償の恵み、私たちが弱さをもった存在だからこそ、神の独り子は私たちのもとに来てくださった、それがクリスマスの大切なメッセージです。
私たちの中には、イエス様がこの世に来てくださったのに、そして今も働いてくださっているのに、どうしてこの世界は未だに闇の部分が消えてなくならないのだろう。どうして多くの苦しみがあり、それを耐え忍ぶことが求められるのだろう、そのような思いを持っている人がたくさんいます。私たちも、時々わからなくなったりします。死を越えた永遠の命への希望があるって、具体的にはどういうことなんだろう。そこに向かって歩む中で味わう苦しみの意味と、その歩みをイエス様も共に歩んでくださっているって、実際にはどういうことなんだろう。そのような思いが私たちの中をよぎります。自分の手に取るように、神様の存在とイエス様の姿を実感したい。そのような思いが誰の心にも起こります。どうしたら、私たちがもっと神様の心、呼びかけ、うながしを感じ取ることができるでしょうか。そして神様が共にいてくださるその慈しみとあたたかさを感じ取っていくために何が大事でしょうか。それは、私たち一人ひとりに問いかけられていることです。そしてその答えはきっと私たちが受け身の態度でいては与えられないのだと思います。自分の方から動いて、近づいて、心を向けて初めてわかるものなのだと思います。主の降誕の場面でも、羊飼いたちは天使の呼びかけに応えて、イエス様が誕生された場所を訪ねて行きました。東方の3人の博士たちも、遠い東の国から、光輝く星を手掛かりに、長い旅を続けてその場所を探しあてました。じっと待って何もしない生き方、不平と不満だけを述べる生き方から、自分も一歩、自分の枠から抜け出て、進み出してみる。その歩みが決して無駄にならないことを信じてみる。そのような動きや歩みの中に、きっと神様が共にいてくださることを感じ取る鍵が隠されているのだと思います。
今日の第一朗読で読まれたバルクの預言は、バビロン捕囚というエルサレムにとって悲しみと苦しみのどん底の出来事の中にあって、今神が「義の衣」と「栄光の冠」によってエルサレムを包もうとされることを告げます。捕囚という耐えがたき憂き目にあっていても、必ず神の栄光が示される日が必ず来ることを預言します。どんなに現実が正義から離れ、苦難に満ちていても、神様は必ずその中にあって働き続け、御自分に心を向けることを待ち続けておられます。私たちが持つべき信仰の目は、この世界の中に神様の存在と働きを見いだすことができる目です。どんなにこの世界が神様から離れているように映っても、そこに神様がしっかりととどまり続けてくださっていることを思うこと。そして神様は必ず私たちの信仰に応えてくださる、その思いを強く持ちたいです。
私たちは義務や規則だけでは正しい生き方はできません。私たちが真にいつくしみに満ちた生き方ができるとすれば、それは神様の本当のやさしさ、あたたかさを知り、そのいつくしみ包まれた時だと思います。この待降節の間、神様のいつくしみを黙想し、そのいつくしみに包まれ、自分もそのいつくしみの心を自分の心として歩むことを祈り願いたいです。
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