マルコ13:24-32
現代世界には様々な困難、問題が山積みしています。この世界はこれからどうなるのだろうかと心を痛め心配されている方も多くおられると思います。気候が変動し、様々な自然災害が発生しています。その中で多くの人は神様が存在しておられるのであれば、どうしてこのようなことが起こるのだろうか。神様が力を現して災害が起こらないようにしてくださればよいのにと思うかもしれません。私たちに降りかかる苦しみ、困難、これをどのように受け止めたらよいか、それは現代を生きる私たちにとって大きな問いだと思います。
今日の福音でイエス様は言われます。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。人の子とはイエス様のことで、雲に乗ってというのは、イエス様が神の子であることを表します。この世が完成される時、イエス様は神の子として、もう一度真の姿で私たちのもとに来てくださいます。その約束は真実であり、確実です。そしてその到来の日は、イエス様に従って苦難を耐え忍んで歩んできた人たちにとっては救いの日になります。
第一朗読で描かれているダニエルの預言は、神様を信じて歩む人々に様々な不利益が起こる一方で、神を信じる人々を迫害する者たちが繁栄している現実をどう受け止めたらよいかという状況の中で記されました。そして自分たちはこの世においては報われることがなくても、次の世において神様が正しく裁いてくださることへの希望を表しています。神様は神様を信じて歩む人々、この世にあっては苦難を耐え忍ぶ人々を決して放ってはおかれない。必ず正しい裁きをしてくださる。そこから死者が復活するという考えが起こりました。イエス様はその希望が真実であること。救いは必ず訪れるということ。それを信じて今という時を目覚めて歩みなさいと呼びかけられます。世の完成、終わりということを聞いて、ただ恐れやとまどいを感じるのではなく、今という時をどう歩んだらよいか、それを祈りながら見つめることが大事であるということです。イエス様の到来の日がいつかは誰にも知らされてはいません。でも大事なことは、その日がいつであるかを知ることよりも、その日に向かって心をイエス様に向けて歩むことです。天の父がすべてを計らってくださる。それを信じて、今自分がすべきこと、大切なことを見つめて歩むことです。
教会の典礼の暦も来週の日曜日が王であるキリストの祭日で、教会としての1年を締めくくります。そしてその次の日曜日から待降節が始まり教会の新しい1年が始まります。そのような時を過ごしている私たちが、今を見つめ、自分がどうあったらよいか、また自分とイエス様との距離を縮め、苦難や惑わされる様々な出来事に出会ってもしっかりとした信仰を持ち、いつの日かはわからない、でも確実に訪れる救いの日に向かって歩み続けることができるように心を込めて祈らなければと思います。今、自分が大事にすべきこと、それをしっかりと見つめて、日々訪れる1日1日を大切に過ごしていくこと。それが今の私たちにとって大事なことです。
「天地は滅びる」というイエス様の言葉は、この世に絶対的なものはないという事実を指摘するものです。そして「わたしの言葉は決して滅びない」という言葉は、イエス様の言葉こそ私たちの人生の土台となるものだということです。そこから光と力をいただくこと。終わりの日は救いの日なのだから。その日を不安のうちに待つのではなく、むしろ希望をもって今を目覚めて生きる、それがイエス様からの呼びかけなのだと思います。
イエス様も十字架の死で終わらずに、そこから復活されました。それは私たちにも復活があることを教えてくださいます。この世にあってイエス様を信じて歩む中には、苦難を味わうことがあるかもしれない。いろんな壁にぶつかったり、妨げを経験したり。それでもイエス様の後を自分の十字架を背負ってついていく生き方こそ、復活につながる生き方であることを心に刻むこと。私たちに求められている信仰はこの態度です。イエス様は救いがあることを約束してくださいます。そのイエス様を信じて、イエス様ともっと近くなって、毎日の生活においてイエス様に語りかけ、イエス様と心を合わせてこの人生を歩み通したいと思います。この信仰の輪が私たちの周りに広がっていきますように祈りたいです。
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