top of page

2023年8月13日 年間第19主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2023年8月12日
  • 読了時間: 5分

マタイ14:22-33


今日の福音は、イエス様が5千人もの人々を食べて満腹させられた後、一人祈るために山に登られたところから始まります。この一人祈るために山に登られたイエス様の姿を心に刻みたいです。イエス様はなぜ一人で祈るために山に登られたのでしょうか。そしてイエス様にとって祈りとは何を意味したでしょうか。イエス様の祈りは、ご自分の父である天の父に心を向けることだったと思います。ご自分にとって一番の方である天の父に何でも話し、相談し、ご自分がこれから行うこと、人々に伝えることを確認しておられたのだと思います。イエス様は、御父の了解なしに何もなさいませんでした。イエス様にとって天の父は特別な方であり、一番の理解者だったと思います。天の父と何でも話し、天の父の思いを行うことがイエス様の使命でした。


そのイエス様は湖の上で強い風と波に漕ぎ悩んでいる弟子たちのもとへ湖の上を歩いて近づいていかれます。湖の上を歩いて弟子たちの元へ近づいていかれるのは、イエス様がただの方ではなく、神の子であることを表しています。しかし弟子たちはイエス様のことを幽霊だと思い、恐れを感じてしまいます。私たちももし同じ状況にいたとしたら、弟子たちと同じ態度を取ったかもしれません。また、同じようにイエス様が現代に現れて姿を見せられたとしたら、私たちは喜びよりも、きっと恐れを感じてしまうのではないでしょうか。どんなに信仰を持っていたとしても、実際の私たちは本当に弱いものです。すぐ恐れや不安を感じてしまいます。


私たちが持っている信仰は、私たちにとってどのようなものでしょうか。洗礼を受けていても、また信仰を持っていると言っても、やはり人生の嵐に遭遇すれば、恐れと不安を感じます。私たちは自分の人生の歩みが順調な時は、特別に悩んだりしません。全てに感謝ができ、神様に対しても心を向けることは難しくありません。でも一度困難にぶつかったり、大きな試練に出合った時、私たちは皆自分の無力さに押し潰されそうになります。それは第一朗読に登場した預言者エリヤも同じでした。預言者エリヤは、神に対する背信の道をゆく北イスラエル王国の人々に遣わされた預言者でした。預言者として民に回心を説き、果敢に偽預言者に立ち向かいました。しかしアハブ王と異教の神バアルを信じるその妻イゼベルによって命を奪われようとすると、命からがら荒れ野に逃げ、精根尽き果ててしまいます。そんなエリヤに神が語られたのは、もう一度引き返し、語り続けよというものでした。そして神が共にいてくださることを感じさせてくださいました。


ペトロも他の弟子たちと同じように、最初湖の上を歩いて近づいて来られるイエス様の姿に恐れと不安を感じていました。それでもイエス様だとわかると、逆に自分もイエス様と同じように湖の上を歩くことを求めます。イエス様から「来なさい」と言われたペトロは湖の上を歩き始めますが、すぐに恐ろしくなって沈み始めます。そんなペトロをイエス様は引き上げて「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されます。でもペトロにとってこの出来事が、イエス様に対する信仰を告白する大きな機会になりました。もしペトロが舟の中にとどまっていたら、このような体験をすることができなかったでしょう。イエス様を信じて湖の上を歩き始める。でも途中で恐ろしくなって沈みかけた時、イエス様が引き上げ救ってくださった。そしてイエス様が持っておられる真の力に触れることができた。


私たちが使っている「信仰」という言葉は、語源をたどれば「信頼」と言い換えることができます。神様を信じるとは、神様に信頼するということです。神様に信頼を置いてこの人生を歩むということです。私たちにとって、この世で神様を信じて人生を歩むことは、湖の上を歩くのと同じことです。目で見ることができない、直接声を聞くこともできない。いろんな困難も経験する。そのような状況にあっても、神様に信頼を置いて人生を歩むとは、ペトロと同じように湖の上を歩み出すことと同じです。そして大事なことは、途中で不安や恐れから無力さを感じて人生の荒波の中を沈みかけたとしても、イエス様に向かって「主よ、助けてください」と叫ぶ心さえ失わなかったら、イエス様は必ず手を差し伸べてくださるということです。私たちは自分の今までの人生の歩みを振り返る時、そのようにイエス様によって救われた出来事が一度もなかったでしょうか。すべてがただ苦しいことが連続する人生だったでしょうか。神様に心を向けることなく歩んでいたら、そういうこともあったかもしれません。でも困難や苦しみに遭遇した時、イエス様に向かって叫んでいく時、私たちの信仰はより強められ、イエス様と共にこの荒波の中を歩み続けることができます。


私たちにとって大切なことは、いつもイエス様に向かって自分の思いを叫び続けることです。心からの叫びは祈りとして神様に届きます。そしてイエス様の姿が感じられたら、そのイエス様に向かって一歩踏み出していくことです。イエス様はそのような私たちの大きな信頼の態度を待っていてくださいます。信仰は神様への信頼を生きることです。今日私たちはこのことを心にしっかり刻んで帰りたいです。信仰が私たちにとって真に生きる大きな力になりますように。













 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年10月12日 年間第28主日

ルカ17:11-19   重い皮膚病を患っていた10人の人がイエス様によって清められます。重い皮膚病は特に苦しみが大きいものです。私は以前、修練者だった時、静岡県御殿場にある神山復生病院で、1ヶ月の実習をさせていただいたことがあります。そこで療養されている人々との出会いの中...

 
 
 
2025年10月5日 年間第27主日

ルカ17:5-10   イエス様は畑で働く僕が仕事を終えて帰ってきた後、その僕が自分を雇ってくれている主人の夕食の準備をすることを話されます。畑で仕事をして疲れて帰ってきて、さらに続けて主人の夕食の準備を僕がすることは、きっと重労働だったでしょう。でもイエス様は、僕は自分に...

 
 
 
2025年9月28日 年間第26主日

ルカ16:19-31 今日は「世界難民移住移動者の日」で、そのために献金が捧げられます。この世界で難民として、また自分の故国を離れて移住せざるを得ない人々の抱える問題の多くは貧困だと思います。生きてゆくこともままならない貧困のゆえに移住・移動しなければならない人々。富める国...

 
 
 

コメント


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page