top of page
検索

2023年2月5日 年間第5主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2023年2月4日
  • 読了時間: 5分

マタイ05:13-16


かつて預言者イザヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚という憂き目から解放されて、祖国に帰ることができ、そこで主の栄光を味わう日が訪れることを預言し、人々を励ましました。そして実際にバビロン捕囚から解放される日が訪れ、人々は喜びにあふれました。しかし人々が期待していた主の栄光に包まれる出来事は起こりませんでした。人々の心はやがて神から離れ、利己主義に走り、形式的な断食や、争いやいさかいが起こりました。なぜ主の栄光の光が輝くことが起こらなかったのでしょうか。それは人々が神に聞き従う生活を送らなかったからだと思われます。


イザヤは言います。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすればあなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。」神様は、人々が何もしないでただじっと恵みが注がれるのを待っていることを望まれません。人々が神の望みを知り、それに応えて行動し、生きる中に主の栄光が輝き出ます。


今日の福音でイエス様は「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われます。このイエス様が言われる塩と光に共通するものがあるとすれば、それは周りを活かす働きをするということです。塩は食べ物に味つけをし、その食べ物の味を活かす役割をします。同じように光も周りを照らし明るくする役割をしてはじめて意味を持ちます。光がただ自分のためだけに光っても役に立ちません。それは誰も人がいない部屋で消し忘れた光がずっとつけっぱなしになっているようなものです。塩も光も周りを活かすために使われてはじめてその意味を持ちます。イエス様が「あなたがたは地の塩である。世の光である」と言われたのは、あなたがたはすでに地の塩であり、世の光なのだという意味です。決して努力して地の塩になりなさい、世の光になりなさいということではないのです。すでに自分の中に塩があり光がある。そしてイエス様が呼びかけられるのは、それを周りを活かすために惜しまず使いなさい。それを自分の中だけにしまっておいてはいけないということです。何もしないでじっとしていることをイエス様はお望みにはなりません。そうだとしたら、自分が持っている、また神様から与えられている塩、そして光とはどのような面を指しているのだろうかと思い巡らしてみることです。それは自分が持っている、自分に与えられている自分のよさと言い換えてもよいかもしれません。自分が周りを活かすためにできることは何だろうか。それを思いめぐらしてみることです。


同時にイエス様は、その塩、光を用いて私たちが行うよい業は、自分を誇るためではなく、その行いを見た人々が、天の父をあがめるようになるためであると言われます。私たちがよい業を行って自分が高められるのではなく、私たちのよい業を見た人々が、神を讃えるようになるためであるのです。


それは、私たち個人のことだけでなく、たとえばあるカトリック学校があって、そこの生徒たちが本当に周りの人たちに対して心あるよい行いを実践しているというよい評判が広がったとします。そしてそれを知った人々がそのカトリック学校と生徒たちを讃えるだけで終わらず、そのような生徒のよい行いを支えている学校全体を包んでいる雰囲気、神様へ心を向ける姿勢に対して人々が称賛を送るようになるということです。なぜ、あの学校の生徒たちはあんなに心優しいのだろうと人々が思う。そして生徒たちの心を導いている神様の存在を讃えるようになる。そういうことだと思います。


学校だけなく、小教区としての教会はどうでしょうか。周りの人たちが教会の建物やそこに集う人々を見て何も感じなかったり、何のよい影響も受けていないとしたら、何かがまだ十分ではないということでしょう。あの教会は外に向かってよい働きを本当によくやっているな、そこに集っている人たちは、本当によい人が多いなと周囲の人々が感じることができるならどんなにすばらしいでしょうか。そしてその奥にある神様の存在に周りの人々が目を向けることができるようになれたら本当にすばらしいということです。そして私たちもそのように努める使命と役割があるということです。


イエス様の「あなたがたは地の塩である、世の光である」という呼びかけは、現代を生きる私たちにも同じように向けられているのだと思います。このようなイエス様の言葉、呼びかけにいつも触れている私たちが、どうそれに応えていくかが問いかけられています。自分には力もない、時間もないと思わず、まず立ち止まってもう一度イエス様の言葉を心で大切に受け止めて、一人ひとりが動き出していくことだと思います。その力と恵みを共に祈り求めましょう。私たちにとってイエス様とのつながり、関りが、この荒れ野の人生を歩み支える力になりますように。そして私たち同士のつながりが私たちを愛で満たし、喜びのある人生を歩むことができますように。今日、共にミサを捧げることができることを感謝し、少しでもイエス様の呼びかけに応えていくことができますように祈りましょう。





 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年4月6日 四旬節第5主日

ヨハネ8・1-11   出エジプトという出来事は、イスラエルの民にとって自分たちの先祖が体験した苦しいエジプトの地から神の大いなる業によって脱出することができたこと、その体験がイスラエルの人々にとって神様を讃え、賛美する信仰の大きな土台となっているということです。今日の第一...

 
 
 
2025年3月30日 四旬節第4主日

ルカ15:01-3、11-32   このたとえ話の中心は何といっても父の姿です。その姿を見つめ心に刻むだけでもよいのです。弟がしてしまったこと、また兄の態度がどうであるかということに目をやるよりも、ひたすらこの父の姿と心に目を向けたいです。父は何一つとがめませんでした。甘や...

 
 
 
2025年3月23日 四旬節第3主日

ルカ13:1-9   私たちは、災害や病気、様々な不幸に直面する時、それを人間の罪の結果だとするとらえ方をします。また神様がおられるのなら、なぜこんな悲惨なことをお許しになるのだろうかと、災害や禍をあたかも神様の意志で行われているかのように見る傾きもあります。しかし、実際に...

 
 
 

Comments


© 2020 by Totsuka Catholic Church. Proudly created with Wix.com

244-0002 横浜市戸塚区矢部町641

(TEL)045-881-8882

(FAX)045-865-2026

bottom of page