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2023年2月19日 年間第7主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2023年2月18日
  • 読了時間: 5分

マタイ05:38-48


私はこちらに来る前は東京のイグナチオ教会で8年間働いていました。そしてその前は山口県の下関の教会で3年、山口の教会で3年働きました。その山口と下関にいる間、私は山口刑務所で教誨師の経験もしました。2ヶ月に1度刑務所を訪れ、希望する受刑者に話をする仕事です。その中で一人の青年と出会いました。彼はよく私との個人面談を申し込んでくれて、いろんな話をしました。その中で印象に残っていることとして、彼はけんかが強く、刑務所に入る前に悪い行いもあったようでした。あることで捕まって刑務所に入ることになりました。彼はその中で少しずつ回心して、まじめに刑期を終えられるようにがんばっていました。ある時、彼が話してくれたのは、刑務所の中ではまじめにやっているとちょっかいを出されたり、けんかを売られたりすることもある。もしけんかをしたら絶対負けないという思いはあるが、今はしないでがんばっているということでした。私はそんな彼に、本当に強い人は負けることができる人のことなのだという話をしました。些細なことで挑発されたりしても、それに乗らずに黙って耐えることも真の強さなのだということです。イエス様も黙って十字架の苦しみを担われました。それを通して真の愛と強さを表されました。パウロは言います。「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」イエス様が示された十字架を生きることはこの世にあっては愚かな者に徹して生きることだと思います。


イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われます。そして、敵など愛せるわけがないというのが私たち人間の思いです。敵とまでも言わなくても、誰にでも自分が苦手とする人、いやだなと思う人が必ずいます。そしてそのような人たちを愛することは簡単なことではないでしょう。ほぼ不可能だと思ってしまいます。それが正直な私たちの思いではないでしょうか。でもこの自分が苦手とする人、敵を弱さをもった罪人だと思うことができたらどうでしょうか。敵とまでは言えなくても自分と意見が違う人、自分と対立する人、そのような人をその人も弱さを抱えた罪人なのだ、イエス様が罪人を裁かず愛されたように、励まされたように、祈られたように私もその人を裁かずその人の回心と立ち上がりのために祈る、罪人のために祈る、それならできるかもしれない、そう思います。


イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われ、その理由として「あなたがたの天の父の子となるためである。」と言われます。天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。天の父がそのような心の方なのであるから、あなたがたもその子として、その心に倣いなさいというのがイエス様のメッセージです。ここからわかるのは、天の父である神様の心は大きく慈しみに満ちているということです。普通だったら正しい者のみを愛し受け入れ、悪人や正しくない者を退けます。でも、天の父はどんな人であっても生きるために太陽の光、温もり、また体をうるおすための水が必要であることを思ってくださり、すべての人にその恵みを与えてくださいます。悪人であろうが善人であろうが、そのことだけで区別したり、それによって与える恵みを変えようとはなさいません。逆にすべての人がその恵みに与り、そのことを感じて、天の父の慈しみ深い心を思い、それに倣って歩んでほしいと思い続けてくださっているということです。イエス様はご自分の父である方の心を私たちにお伝えになられたいのです。そして私たちにもその心を知って、生きてほしいと思っておられるのです。


ある方が、そのイエス様が伝えられる天の父の心となさり方を太陽の光の特徴にあてはめて説明されたものがあります。その方は、太陽の光の特徴を4つにまとめて説明しています。

●太陽の光の特徴

1.太陽の光は人を差別しません。太陽の光は誰にでも及びます。決していいことをしている人にだけ光がさすわけではありません。すべての人を包もうとされる、そのおおらかさ、やさしさは神様のなさり方です。


2.太陽の光は人を強制しません。無理やりに光を注ごうとはされません。窓を開けるか開けないか、カーテンを開けるか開けないかは、私たち人間の自由なのです。あなたは光を受けなさいなどと言って強制されません。窓とカーテンを開けて、その太陽の光を喜んで受けとめるかどうか、それは私たち一人ひとりにかかっています。決して強制されないというのが神様のなさり方です。


3.太陽の光は報いを求めません。だから窓から差し込んでくる光は1時間につきいくらというわけではありません。すべて無償です。そして私たちが感謝するかどうかにかかわらず、無償で差し出されています。それが神様のなさり方です。


4.太陽の光は決して減りません。私たちだと、何か人のためにしたら疲れてしまいます。そして何かをあげればなくなってしまいます。ところが太陽の光はあげても減りません。降り注いでも注いでも、ぜんぜん少なくならないのです。それは神様の慈しみと同じです。


神様は私たちがその光を喜んで受けとめてくれたらうれしいと思っておられる。そして、神様のように大きな心で互いのことを思って生きてほしいと思っておられる。神様は私たちを生かすために毎日惜しみなく光を注いでくださっている。その光の恵みに気づき、感謝し、そして神様のように生きる時、私たちの中にあるいのちの光が輝くということ。

神様がよい方なのだ、本当にすばらしい方なのだ、その思いを人々がいだけるようにすること、それが福音を伝えることだと思います。敵を愛することは簡単ではありません。でも私たちの姿を通して天の父の計り知れない慈しみを示すことになるのであれば、これ以上にすばらしいことはないと思います。






 
 
 

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