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2022年7月31日 年間18主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年7月30日
  • 読了時間: 6分

ルカ12:13-21


「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」コヘレトがなんという空しさ、すべては空しいと語るのは、正しい生き方をしても、それが必ずしも正しく報われるわけではなく、逆にこの世にあっては悪人が栄えることが起きているからです。「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、空しいことだ。」コヘレトが語るようにすべてが空しく思われる、それは現代を生きる私たちも同じかもしれません。一生懸命正しい生き方をしたとしても、それが必ずしも正しく評価されるわけではない。逆に要領よく生きている人が栄え楽しんでいる。このような現実をどう受け止めたらよいのか。神様はどのように感じておられるのだろうか。私たちはこのような問いに答を持っているわけではありません。また神様も直接にはお答えになりません。私たちもこの世を生きる上で味わう労苦の意味、善人が栄え、悪人が滅びるとはならない現実をどう受け止めていくかは、大きな問いだと思います。それでも私たちは、だからいい加減な生き方をしていいとはなりません。


今日の福音でイエス様が話されたたとえのように、ある金持ちの畑が豊作だったとき、その金持ちはこう自分に言い聞かせます。「倉をこわして、もっと大きいものを建て、そこに穀物や財産をしまって、さあこれから先何年も生きて行くだけの蓄えができた。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。しかし、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」。自分のために富を積んでも、神様の前に豊かにならない者はこのとおりだということです。神様を思わず、自分の都合と思いだけで生きようとしても、最終的にはこの金持ちのように、自分のために蓄えたものも死を前にするとき、何の役にも立たないということです。逆に神様のメッセージは、この金持ちのような愚かな者になってはならないということです。大事な事は、自分のために富を積むのではなく、神の前に豊かになる生き方をすることです。それはこの世にあっては、報われない生き方になるのかもしれません。それでも、神様の前に豊かになる生き方が、私たちをいろんな囚われから解放し、真の救いへと導きます。私は時々、司祭になって今まで何人の方々の葬儀を行い、お見送りしてきたのかなと思うことがあります。正確に数えたことはありません。でもたくさんの方々の葬儀をさせていただいてきたことも事実です。そしていつも葬儀を終えた時、自分の心の中に残る思いは、この葬儀に携わらせていただいて本当によかった、ありがたかったという思いです。祈りを共にできてよかった、お見送りを一緒にさせていただいてよかった。疲れは残りますが、疲れを超えた心が満たされる思いを何度もしたことがあります。ある方とは、死が近いという状態の中でお話をさせていただいたこともあります。がんが末期であることを受け入れ、残された日々を大事に過ごされた方々、涙を流されながらイエス様にしっかりつながることの大事さを話された方々。そのような方々を今までたくさんお見送りしてきました。今、その方々は神様のもとでどう過ごされているかなとも思います。死という私たちにとって大きな現実に対して、どう向きあったらいいか。私たちは死を前にするとき、自分の小ささ、無力さを実感します。でもそれはとても大切な気づきなのだと思います。その無力さの中で、心からイエス様の存在を求める。イエス様にどうかこの私と共にいてください、私の側にいてくださいと願い祈る。その祈りがとても大事だと思います。


人によって、その死のあり方は様々でしょう。それでも共通して言えることは、どのような死であっても、大切なことはそれまでをどのように生きることができたかということです。イエス様がおっしゃるように「人の命は財産によってどうすることもできない」ということ。有り余るほど物を持っていても、それで人生の価値が決まるわけではないこと。一人ひとり自分の人生を神様の前で豊かになる人生になるように努めていく。多くの人が聞きたいのは、それではどのような生き方が神様の前で豊かになる生き方なのですか、ということでしょう。


一つ言うことができるとしたら、それは自分が手にしている富、財産をどのように使うことが神様の前に豊かになるかを考えるということでしょう。そしてこの富、財産は単にお金のことではなく、自分の体、健康、そして時間も含まれます。人が本当に幸せを実感しているかどうかを計るために、自分の心の中に落ち着いた平安の思いと、心が満たされた思いが実感できているかを見ていく必要があります。そしてまた、想像の目をもって、自分にもいつの日か訪れる死の旅立ちの姿を想像して、自分が死の床にあってどのような心の状態でいられるのが一番幸いなのか今から考えておくことはとても大事です。


ある人は、皆死ぬ時は恐れと悔やむ心しかないと思うかもしれません。でも本当に自分の人生を振り返って、感謝と喜びの心を一杯にして死に臨む方がおられることも私たちは忘れてはいけません。そしてその感謝と喜びの心は、イエス様のたとえに出てきた金持ちのように豊作によって得ることができた富をこれから先何年も遊んで自分の楽しみのために使うような生き方によっては決して得ることはできないし、神様もそれを望んではおられないということです。自分にも足りないところや欠点がたくさんある。それでもいつか自分にも訪れる死を迎えるときに、心が感謝と喜びで満たされるような生き方をしていきたい。そのために今、できること、していったらよいことを見つめて実行できるようになっていきたい。もしそのことを願って心から祈っていくなら、イエス様はその思いをその祈りを祝福してくださいます。


普段から、いつも今日という日を精一杯過ごせたかな、無駄にすることなく、与えていただいた時間を精一杯使うことができたかなと思うことを大事にしたいです。私たちは最後まで失敗だらけの人生かもしれません。それでも心の中に祈りと神様の前で豊かになる生き方の大事さを保ち続けることができるなら、その心が私たちを様々な囚われから自由にし、本当の喜びに導いてくれるのだと信じます。富を自分のために使う誘惑は、最後まで私たちの歩みから無くならないかもしれません。それでもそれにまさる喜びの生き方があることをイエス様は私たちに示し続けてくださっておられます。「人の命は財産によってどうすることもできない」、「神の前に豊かになる生き方を大切にしていく」このイエス様のみ言葉を大事に心で受け止めたいです。そしていつの日か私たちも死を迎える時、心が平安で満たされる生き方を歩んでいきたいと願います。







 
 
 

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