私は最近よく人間は肯定される、肯定してもらえることがとても大事だと感じます。何気ないことでも、自分が話したことをそうだねと受けとめてもらえることはうれしいことですし、それが自分の生きる力につながります。今日の福音の場面でもイエス様が復活された後、弟子たちはバラバラになっていたのではなく、皆が一緒にいたことがわかります。そして一緒に漁をしていました。そしてペトロが「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言っています。私はこの「わたしたちも一緒に行こう」という言葉がとてもいいなと感じます。自分は行かないと反対するのではなく、誰かが何かをやろうと言うとき、わたしたちも一緒にやろうと同意していくこと。何気ないことのように見えますが、弟子たちの間で見られた互いを大事にし、相手を肯定していく態度を私たちも身に着けたいと思います。
この相手を肯定していく態度は、復活されたイエス様の弟子たちに対する態度にも見られます。イエス様を置いて逃げてしまった弟子たちを、イエス様は責めやとがめの言葉を発するのではなく、逆にあたたかいことばと姿で接していかれます。そして復活されたイエス様は、復活されたからといって何か特別なことをなさるのではなく、普通に弟子たちの日常生活の中に姿を現されます。復活されたイエス様が弟子たちに姿を現されたのは、弟子たちが漁をしていた浜辺でした。そして言われた言葉は、「子たちよ、何か食べる物があるか」でした。特別にむずかしいことを言われたのではなく、普通に弟子たちの日常の食べ物のことを心配されたのです。復活されたイエス様と出会うとはそのようなイエス様と出会うということです。
私たちも日常生活の中で復活されたイエス様との出会いを感じることができたらすばらしいです。そして同時に弟子たちが体験したその夜は何もとれなかったという現実も大事にしたいです。私たちの日常はこのような現実の繰り返しではないでしょうか。そのような中でイエス様は弟子たちに「舟の右側に網を打ちなさい」と言われます。そして弟子たちはイエス様が舟の右側と言われたからそのとおりにしました。なぜ左側ではないのですかと聞き返しませんでした。そしてイエス様が言われたとおりに行うと網を引き揚げることができないほどの魚が捕れました。
この出来事で大事なことを3つにまとめるなら1つは、一緒に行こうとするその心の態度、2つ目は、何も捕れなかった現実を受け入れる大事さ、そして3つ目は、右側と言われたら素直に聞き従うその素直さです。イエス様は漁を終えて戻ってきた弟子たちのために、朝の食事の準備をして迎えられます。炭火がおこされ、その上に魚がのせてあり、パンもありました。そして「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われます。復活されたイエス様と出会うというのは、何か特別なことというよりも、日常のごくふつうの出来事の中で復活されたイエス様に出会っていくことだと思います。何気ない普通の出来事の中に復活されたイエス様が共にいてくださり、弟子たちと同じように私たちを導き、招いておられます。そしてその復活されたイエス様の私たちへの望みは、イエス様を愛してイエス様の求めに従って行動していくことです。最後までイエス様の私たちへの望みは「私に従いなさい」だと思います。
私たちが、この普通の日常生活の中で復活されたイエス様と出会い、イエス様に導かれて、イエス様のように自分を与え、人に尽くす生き方をしていきたいです。私たちも日常生活の中で神様が実現してくださっている私たちへの愛、配慮に気づいていく目を養いたいです。そのような目を通して日々復活されたイエス様に出会いその喜びにあずかっていくことができたらどんなにすばらしいかと思います。そしてそれを通して、私たちも本当の喜びを味わうことができたらと思います。
Comments