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2022年11月20日 王であるキリスト

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年11月19日
  • 読了時間: 4分

ルカ23:35-43


初めて教会に来られた人が、まずどのようにとらえたらよいのかととまどうのが、十字架に架けられたイエス様の姿ではないかと思います。イエス様の十字架の死が私たちの救いのためであったと頭で理解しても、神の子であり救い主である方が、なぜあのようなむごい苦しみの死をその身に受けなければならなかったのか、そのことを受け止めるのは簡単ではないと思います。イエス様の真の姿は神の子であり、その父である方から遣わされてこの世に来られました。それは罪の状態に縛られ不自由さの中であえいでいる私たちを救い出し、真の救いへの道に連れ戻すためでした。そしてその究極の業が十字架の上でご自分の命を捧げることでした。他にも救う方法があったのではないか。何もあのようなむごい苦しみをお受けになられなくても、神の力を示して悪の力を滅ぼされればよかったのではないかなど、私たちはそのように感じてしまいます。このような思いは当時の弟子たちも同じだったでしょう。神の子であり救い主である方が苦しみを受けて死ぬということなど誰も想像もしなかったと思います。でもイエス様はそれをなさったのでした。


今日の福音の場面を見るとこのイエス様の十字架の死の姿について、そこに集まった人々の思いが表れています。最初に登場するのは、イエス様の十字架の姿をあざ笑う議員たちです。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」次に兵士たちも近寄りイエス様を侮辱して言います。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」十字架にかけられた犯罪人の一人もイエス様をののしって「お前はメシアではないか。自分自身と我らを救ってみろ。」彼らの共通の思いは、イエス様が神からのメシアであるなら、このような十字架に架けられ無力なままでいるはずがない。十字架から降りて自分を救うことができるはずだ。だからこのように十字架にはりつけにされたままの者がメシアであるはずがない、そう捉えます。しかし十字架に架けられたもう一人の犯罪人は「お前は神を恐れないのか」、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない。」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と願います。この犯罪人はイエス様をメシアと認めています。そしてイエス様は十字架から降りることができないのではなく、むしろ降りないことによってメシアなのだと捉えています。イエス様は罪がないのに、私たちのために、私たちに代わって十字架に架かって命を捧げてくださっているのだと受け止めています。


このイエス様を十字架から降りることができないただの無力な存在と見なすか、それとも十字架から降りることをあえてなさらない、苦しみを受け救いの業を全うされる神の子と受け止めるか。その問いは私たちにも向けられています。イエス様はイエス様を真のメシアと信じた犯罪人に「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。イエス様が楽園を約束してくださいます。私たちの人生の目的も、このイエス様が約束してくださる楽園に共に与ることができるように歩むことにあります。


イエス様は十字架に上げられながら、同時に御父の元へも上げられました。へりくだって十字架に上げられたことが、天の栄光に上げられたことと同じでした。だから教会はこの十字架を信仰の中心としていつの時代も大切にしてきました。私たちの生活の中にも十字架があります。引き受けたくない物事がたくさんあります。でもその多くは自分が背負うしかないもの、理不尽に思えても引き受けていく生き方が求められます。その生き方は簡単ではないでしょう。苦しみも伴うでしょう。だから祈りが必要です。祈りを通してイエス様に近づき、イエス様に心を向けていくことです。つらくてどうしようもないとき、一歩も歩めないと思うときは、十字架に上げられたイエス様の姿に目を上げたいです。苦しくてどうしようもないその思いを十字架上のイエス様にうちあけたいです。イエス様はきっとわかってくださるでしょう。そして答えをくださるでしょう。イエス様が単に力に満ち、力ある業と奇跡だけを行うためにこの世に来られたのではなかったこと。最後はぼろぼろになり、十字架に架かって無力な姿に徹してくださったこと、その姿が自分の小ささ、無力さのゆえにあえいでいる私たちにとってありがたく、そして力強く感じられます。私たちが信じ、希望をもって心を向ける方は、十字架の重みを知っておられ、それを救いへと変えてくださる方です。


私たちの生活はなかなか理想どおりにはなれないかもしれません。でもその不十分で足りないことだらけの状態を自ら担っていくことも、自分の十字架を担って歩む神様への大きな愛になります。私たちももう一度十字架に込められたイエス様の思いに心を向け、私たちにとって、イエス様の十字架の姿が私たちが生きていく大きな力と支えになりますように祈りたいです。





 
 
 

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