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2020年8月9日 年間第19主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月1日
  • 読了時間: 5分

マタイ14:22-33 ミサ説教

今日の福音は、イエス様が5千人もの人々を食べて満腹させられた後、一人祈るために山に登られたところから始まります。この一人祈るために山に登られたイエス様の姿を心に刻みたいです。イエス様はなぜ一人で祈るために山に登られたのでしょうか。そしてイエス様にとって祈りとは何を意味したのでしょうか。イエス様の祈りは、ご自分の父である天の父に心を向けることだったと思います。ご自分にとって一番の方である天の父に何でも話し、相談し、ご自分がこれから行うこと、人々に伝えることを確認しておられたのだと思います。イエス様は、御父の了解なしに何もなさいませんでした。イエス様にとって天の父は特別な方であり、一番の理解者だったと思います。天の父と何でも話し、天の父の思いを行うことがイエス様の使命でした。

そのイエス様は湖の上で強い風と波に漕ぎ悩んでいる弟子たちのもとへ湖の上を歩いて近づいていかれます。先週の福音の場面でイエス様が5千人の人々にパンを与えて満腹させられたのと同じように、湖の上を歩いて弟子たちの元へ近づいていかれるのも、イエス様がただの方ではなく、神の子であることを表しています。しかし弟子たちはイエス様のことを幽霊だと思い、恐れを感じてしまいます。私たちももし同じ状況にいたとしたら、弟子たちと同じ態度を取ったでしょう。また、イエス様が現代に現れて姿を見せられたとしたら、私たちは喜びよりも、きっと恐れを感じてしまうのではないでしょうか。どんなに信仰を持っていたとしても、実際の私たちは本当に弱いものです。すぐ恐れや不安を感じてしまいます。

私たちが持っている信仰は、私たちにとってどのようなものでしょうか。洗礼を受けていても、信仰を持っていると言っても、やはり人生の嵐に遭遇すれば、恐れと不安を感じます。私たちは自分の人生の歩みが順調な時は、特別に悩んだりしません。全てに感謝ができ、神様に対しても心を向けることは難しくありません。でも一度困難にぶつかったり、大きな試練に出合った時、私たちは皆自分の無力さに押し潰されそうになります。それは第一朗読に登場した預言者エリヤも同じでした。預言者エリヤは、神に対する背信の道をゆく北イスラエル王国の人々に遣わされた預言者でした。預言者として民に回心を説き、果敢に偽預言者に立ち向かったエリヤでしたが、アハブ王と異教の神バアルを信じるその妻イゼベルによって命を奪われようとすると、命からがら荒れ野に逃げ、精根尽き果ててしまいます。そんなエリヤに神が語られたのは、もう一度引き返し、語り続けよというものでした。そして神が共にいてくださることを感じさせてくださいました。

ペトロは他の弟子たちと同じように、最初湖の上を歩いて近づいて来られるイエス様の姿に恐れと不安を感じていました。それでもイエス様だとわかると、逆に自分もイエス様と同じように水の上を歩くことを求めます。イエス様から「来なさい」と言われたペトロは水の上を歩き始めます。しかしすぐに恐ろしくなって沈み始めます。そんなペトロをイエス様は引き上げて「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されます。でもペトロにとってこの出来事が、イエス様に対する信仰を告白する大きな機会になりました。もしペトロが舟の中にとどまっていたら、このような体験をすることができなかったでしょう。イエス様を信じて水の上を歩き始める。でも途中で恐ろしくなって沈みかけた時、イエス様が引き上げ救ってくださいました。そしてイエス様が持っておられる真の力にふれることができました。

私たちが使っている「信仰」という言葉は、語源をたどれば「信頼」と言い換えることができます。神様を信じるとは、神様に信頼するということ。神様に信頼を置いてこの人生を歩むということです。私たちにとって、この世で神様を信じて人生を歩むことは、水の上を歩くのと同じことです。目に見えない、直接声を聞くこともできない。いろんな困難も経験する。そのような状況にあっても、神様に信頼を置いて人生を歩むとは、ペトロと同じように水の上を歩み出すことと同じです。そして大事なことは、途中で不安や恐れから無力さを感じて人生の荒波の中を沈みかけたとしても、イエス様に向かって「主よ、助けてください」と叫ぶ心さえ失わなかったら、イエス様は必ず手を差し伸べてくださるということです。私たちは自分の今までの人生の歩みを振り返る時、そのようにイエス様によって救われた出来事が一度もなかったでしょうか。すべてがただ苦しいことが連続する人生だったでしょうか。神様に心を向けることなく歩んでいたら、そういうこともあったかもしれません。でも困難や苦しみに遭遇した時、イエス様に向かって叫んでいく時、私たちの信仰はより強められ、イエス様と共にこの荒波の中を歩み続けることができます。

私たちにとって大切なことは、いつもイエス様に向かって自分の思いを叫び続けることです。心からの叫びは祈りとして神様に届きます。そしてイエス様の姿が感じられたら、そのイエス様に向かって一歩踏み出していくことです。イエス様はそのような私たちの大きな信頼の態度を待っていてくださいます。信仰は神様への信頼を生きることである。今日私たちはこのことを心にしっかり刻んで帰りたいです。信仰が私たちにとって生きる大きな力になりますように。

 
 
 

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