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2020年8月2日 年間第18主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2020年11月1日
  • 読了時間: 5分

マタイ14:13-21 ミサ説教

今日私たちが聞いた福音は、イエス様が5つのパンと2匹の魚を用いて5千人の人々を満腹させられたというものです。私たちは普通この出来事を耳にすると、そんなことあるはずがないとか、イエス様は神の子である方だから、その気になればそういうこともおできになるだろう、そんな感じを覚えます。でもイエス様がこの出来事を通して私たちに伝えたいものがあるとしたら、それはただイエス様が神の子だから奇跡に思えることもおできになるということではないと思います。ある人たちはイエス様のなさったことを奇跡としてとらえることをしないで、この場面も実際には人々がそれぞれ持っていた食べ物を皆が出し合ったから十分皆が食べて満腹するだけの食べ物があったのだとみる人たちもいます。そしてやはり食べ物は分かち合うことが大事なのだという結論に導こうとします。

でも実際はどうだったのでしょうか。イエス様も弟子たちもここが人里離れた所でこのまま夕暮れになってしまったら、皆食べ物のことで困ることになることは十分わかっていたと思います。実際に弟子たちはイエス様に言います。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。でもイエス様の答えはそうではありませんでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちからすればそれは到底無理な提案です。実際にここには5つのパンと2匹の魚しかなく、それだけではとても人々に食べ物を与えることはできないからです。しかしイエス様はあえてそれを断言されます。イエス様はこの出来事を通じて何か特別に大事なことを弟子たちに教えようとされたのだと思います。

弟子たちにとってこのような困難な状況の中においては、成すすべがありません。群衆を解散させてそれぞれが村で食べ物を買いに行くという常識的なことしか考えることができないのです。弟子たちは自分たちが置かれている状況に対して何もできないのです。それはこの状況だけでなく、苦しんでいる人々の苦しみに対しても同じです。弟子たちは自分たちが持つ力で人々を癒したり、救うことはできないのです。でもイエス様はまずそのことを弟子たちにお教えになられたかったのだと思います。弟子たちが人々の救いに対して力を持ち合わせていないこと。それをまずしっかり自覚すること。同時にそれで終わらず、ここは人間の常識では何も行うことはできないけれども、ここにはイエス様がおられる。イエス様が何をなさるか、どんな力を示されるか想像もできないけれど、そのイエス様を信じてみる。この姿勢はとても重要になります。人間的な経験や知恵だけで判断せず、イエス様のなさり方を信じる。この態度は私たちにも求められるのだと思います。人間的に見て絶望する状況にあっても、イエス様がおられることに心を向ける。同時にイエス様が、人間が抱える問題をすべて人間の願い通りに解決してくださると思うのもあやまりだと思います。大事なことは人間の力の限界を認め、困難な状況にあってもイエス様に心を向けていくこと。同時にイエス様に委ねて自分たちは何もしないというのではなく、弟子たちがわずかであっても自分たちが集めることができるものを集めてイエス様にお渡ししたように、私たちも自分たちができることはすべて行ってイエス様に差し出していくことです。

イエス様の持っておられる真の力、そして私たちのために今も働いてくださっているその働き。どれも私たちが手に取るようにつかむことができるものではないでしょう。時にイエス様はどこに働いてくださっておられるのだろう。どうしてこんなに苦しい出来事が続くのだろう、そのような思いが私たちの心を支配しているかもしれません。それでもイエス様が私たちに求めておられるのは、このイエス様に対する大きな信頼です。同時に小さな自分たちの働きを惜しまずイエス様に向かって差し出していくことです。そしてイエス様にしっかりつながっているなら、きっとよい方向へ向かっていくことができることを信じることです。私たちの人生の歩みは、そのことを自分の生きる堅固な土台としていくということだと思います。私たちは明日のことでさえ予想することはできません。明日、どんな出来事を自分たちは経験することになるのだろう。でもそれを今わからなくても、祈りをもってイエス様とつながり、自分としてもできることを精一杯行っていくなら、必ず光が与えられる。そのような実感を自分のものにしていくことです。

今こそ、私たちは自分に与えられた人生をどのように用いようとしているのか、どこに生活の中心を置いているか省みるよい時なのかもしれません。パウロは自分の生活の中心をキリストの愛に置いていました。パウロは言います。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

私たちも、自分の生活の核となるものとしてイエス様をしっかり自分のものとして置きたいと思います。そしてそうすることで、人間の思いや想像を越えて働かれるイエス様の力を感じたいです。そして自然といつも神様に賛美と感謝を捧げられるようになりたいです。

 
 
 

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