マタイ11:25-30 ミサ説教
人は誰でも休みや気分転換が必要です。しかし気分転換のためにどこかに出かけたり、自分が好きなことをしたり、休むための時間を取ったとしても、それでも十分に力や元気が回復しないということが起こります。人間の心と体というものは、ただ休息するだけでは力を取り戻すことができない不思議な何かがあるように感じます。これは自分の経験ですが、何かうまくいかないことやつらいことを経験した時、そのことをただやり過ごすよりも、そのつらい状態が変わらなくても、何かそこに大事な意味を見つけることができたり、神様とのつながりの中で、神様がそのことをわかってくださっていると感じられる体験をしていくとき、そのことが一番力になる気がします。神様御自身にふれる体験を通して、生きる意味を見出していくこと、神様の慈しみのまなざしに心の目を向けて、つらいことや苦しいことに出会っても、神様に心を開いて、神様に何でも話して歩んで行くこと。私たちの本当の力の回復は、神様にふれて、神様の呼びかけに応えて歩もうとする時与えられるものです。ただじっとして何もしないのではなく、私たちの本当の力の回復を願ってくださる神様につながって、自分の力を人々のために使っていくとき、私たちは本当の意味で元気になり、喜びに満たされるのだと思います。
今日のミサの朗読で、第一朗読のゼカリヤの預言と福音書に共通するものがあります。それは、神の元から来られる方メシアは、柔和で謙遜な方であるということです。ゼカリヤの預言には「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」とあります。メシアは立派な馬ではなく、柔和で謙遜な者の象徴であるろばに乗って来られる。旧約時代の人々が思い描いていたメシアは、自分たちのために理想的な支配を行い、平和をもたらしてくださるメシアでした。そこには、力をもってはむかう敵を屈服させるというイメージもあったかもしれません。メシアがへりくだって、小さき者になって、苦しみを受けるというイメージはありませんでした。預言者ゼカリヤが預言者として初めてろばに乗って来るメシアの姿を表しました。そして実際にこの世にメシアとして来られたイエス様は、ろばに乗られ、御自分が柔和で謙遜な者であること、人々のために苦しみを受ける方であることを現わされました。
その柔和、謙遜であるイエス様が私たちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、おっしゃいます。当時の人々は、それぞれが重荷を背負って歩んでいたと思います。そのような人々に向かって「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃってくださったのです。そして同時に「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃいます。この「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」というイエス様の言葉が大事なのだと私は思います。本当の力の回復のために、イエス様に学ぶことが必要だということです。始めに話したように、力を回復するためには、ただじっとしていたり、楽しいことをいっぱいすることだけでは足りないということ。本当の力を回復するためには、イエス様につながって、自分が活かされる体験をしていくことが大事です。イエス様が神の子としてこの世に遣わされたのは、私たちに本当の安らぎを与えるためだと思います。そしてそのために大事なことがあることを教えてくださろうとされたのだと思います。
軛は、聖書と典礼の説明にもあるように、2頭の動物をつなぐために動物の首にはめて使っていた道具です。そしてイエス様が言われる軛とは、イエス様の教えのことでしょう。イエス様は「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と、言われます。イエス様が負いなさいと呼びかけられるイエス様の軛は、人に重荷を与えたり、人を不自由にするものではありません。逆にイエス様の呼びかけに従って歩むことで、自分が解放され、自由になれるものです。ある方が説明されていたのですが、2頭の動物をつなぐための軛も、それは動物を自由に動けないようにするためではなく、しっかりと2頭をつなぐことで、かえって動物は動きやすくなり、仕事もはかどったということです。軛と聞くと何かいやなものというイメージがありますが、実際はそうではないということです。
私たちは、パウロが言うように「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」という、神の霊が自分のうちに宿っていることを意識し、その神の霊に従って歩むことで、自分が自由になるということを大事にしたいです。この神の霊とは、聖霊のことであり、神に由来する力のことです。また肉とは、いわゆる肉欲ということではなく、神様に信頼せず、神様から離れて人間的な思い、人間的な力だけで生きようとする態度のことです。私たちが求められているのは、人間的な力に頼る生き方ではなく、神の霊、神の力が働いていることに心を向けて生きることです。イエス様の生き方もすべてこの神の霊、神に由来する力に従って歩まれました。そのイエス様が「わたしのもとに来なさい」とおっしゃいます。私たちがイエス様といつもつながって歩んでいることを意識していくなら、必ず神に由来する力が与えられます。その力が私たちに真の安らぎを与えてくださいます。
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