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執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2020年7月12日 年間第15主日

マタイ13:01-9 ミサ説教

今日の福音は私たちもよく知っているイエス様がなさった種蒔きのたとえ話です。このたとえ話を私たちが聞くとき、普通誰でも蒔かれた種がよい実を結ぶためには、蒔かれた所が良い土地であることが求められると理解します。そしてそれはある意味正しい見方でしょう。でもイエス様はそのことをおっしゃりたくてこのたとえ話をされたのでしょうか。ここで一つ確認しておくことがあります。それはパレスチナ地方の農夫たちが行っている種蒔きのやり方です。このたとえ話にあるように、当時のパレスチナ地方の農夫が行う種蒔きのやり方は、日本のやり方とは違いました。日本では畑をきちんと耕してその耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるやり方をします。このように種を蒔くことで少しも種が無駄にならないようにします。しかしパレスチナでは、土を耕す前に一面に種を蒔いて、その後にその土を掘り起こすようしていきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと後で掘り起こすので問題にしないで一面に種を蒔きます。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナは日差しが強いので、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからです。このやり方は日本とは違って蒔く種が無駄になりそうですが、この地方ではこのやり方が一番土地に合う方法だそうです。イエス様はそのようなやり方をよくご存知の上で、その農夫の種の蒔き方に注目されながらこのたとえを話されたのです。種蒔く人が石ころがあっても茨が生えていてもかまわず惜しみなく種を蒔いたように、イエス様もみ言葉の種を惜しまず蒔かれるということをおっしゃりたかったのです。

私たちは普通にこのたとえ話を読む時、なかなかそのようには読み取ることができませんね。

そして今日の福音の18節以降にこのたとえ話の説明があるように、その説明のように理解します。しかしこのたとえ話の説明はイエス様御自身がされたのではなく、初代教会の人々がイエス様の教えを人々に伝える時、それをより教訓的なものにして説明したといういきさつがあるのです。そしてそれも歴史の流れの中にあっては間違ってはいなかったと言えます。私たちもイエス様の時代からかなり時間を経た時代でイエス様の言葉に接しているわけですから、そこには少し時代の影響を受けた読み方をしているところもあります。

それでは、イエス様がこのたとえ話をなさった元々の意味は何だったのでしょうか。それを考えるために今日の第一朗読で読まれたイザヤの預言の言葉を確認しましょう。そこには「雨や雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。・・そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」とあります。神様の口から出る言葉は、むなしく戻ることは決してありません。必ずその望みを成し遂げるとはっきりと言われます。このような所から、今日の福音のイエス様の種蒔きのたとえ話も、イエス様のなさったやり方について言われているのではないかと推測できます。

当時、人々の反応としては、イエス様のなさり方に対していろんな疑問や反対があったのだと思います。イエス様は小さき人々、貧しい人、苦しんでいる人をまず大事にしていかれました。町や村をめぐって一人ひとり病人に手を置いていやされたり、あえて手間のかかる方法を大切にされました。決して効率とか要領のよさとかを重視されませんでした。それが当時の指導者や権力者たちからは理解されず、ばかにされる経験もされたと思います。そのような状況の中で、イエス様はあえてこの種蒔きのたとえ話をなさり、一見無駄に見えても種を蒔き続けること、そして要領よく見えないことでもかえって大事なのだとお示しになられたかったのだと思います。そしてその無駄に思えることを通して、必ず大きな実を結ぶことも明らかにされたかったのだと思います。

無駄に種を蒔いたように見えても、必ずそれを受け止めてくれる良い土地があって、それらを通して大きな実りを得ることができる。このようなメッセージは、現代を生きる私たちにもつながっています。私たちも信仰を持って、神様を信じて日々歩んでいても、時にこれが本当に正しいのだろうか、神様は本当に働いておられるのだろうかなどの思いがよぎってもおかしくありません。私たちは、洗礼を受けていても、まだ完全なかたちで神様と一致しているわけではありません。私たちにとって完全な救いはまだまだ将来の事として希望し続けなければなりません。それでも、その希望を持ちながら今を耐え忍び、生きることに大きな意味があることをイエス様はお示しになられたいのです。イエス様御自身も神の子でありながら、この世にあっては大きな苦しみを経験されました。それでも日々淡々と御父に向かって歩まれました。それが重い十字架を背負うことになったとしても、それを受け止められました。私たちはそのようなイエス様の姿を仰ぎながら、日々を歩んでいく必要があります。預言者イザヤが伝えた主の言葉「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。またパウロの言葉「皆さん、現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。このように今を忍ぶことで、将来必ず大きな恵みに与ることができる。それを信じて歩むというのが私たちに求められている態度です。

私たちも私たちの心に響くイエス様の直接の思いを大事にしたいです。そしてイエス様の言葉の力を信じて歩んでいきた

いです。一見無駄に思えることが、逆にとても大切なことであることを心に刻んでイエス様と共に日々を歩みたいです。

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