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2025年8月10日

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年間第19主日
ルカ(12:35-40)

戸塚・原宿小教区管理者
​田丸 篤神父

現代社会の中で生きる人の多くはあまり信仰とか教会というものに関心を持てていない、また持ちにくいということがあるかなと思います。それは、社会の価値観の方が魅力があって、同時に教会が大切にしていることや信仰の大切さが人々に伝わっていないからだと思います。

 

人間はやはりこの世的な救いを求めます。苦しみがないこと、病気や様々な問題を抱えることなく平穏無事な生活を送る。また祈るとしても、それは自分の都合を述べ、それが実現するように神様に願うことかもしれません。でも、神様の立場になって考えてみるなら、神様にはゆるがすことをなさらない思いがあって、私たち人間がその神様の思いに心を向けて歩むことをずっと待ち続けておられると感じます。

 

今日の第一朗読で旧約聖書の知恵の書が読まれました。その中に「彼らはあなたの約束を知ってそれを信じていたので、動揺することなく安心していられた。」とあります。この「あなたの約束」とは神様がなさった約束で、神様は御自分に聞き従う人々の将来の救いを約束されているということです。そしてその将来の救いに与るために、信仰が求められます。信仰は、たとえ今苦難に満ちていても、将来の救いに与ることを信じて、神様に目を向けて歩むことです。

 

でも私たちの多くは、将来における救いよりも、今すぐに味わえる救いを望んでいるのかもしれません。自分が願ったことがかなえられ、幸せを感じて歩みたい。それは誰もが願うことです。でも、私は自分の周りにいる人々の生活を思う時、すごくよい人で、信仰深く歩んで来られた人でも、晩年、病と体の不調で苦しまれている人を多く見ています。あんなに性格もよくて神様を大事にして生きて来られた方々が、晩年の病や苦しみを免除されているわけではないのです。これも私たちが信仰を持って受けとめなければならない現実だと思います。私たちの中にはそれが人生なのなら、信仰を持っても何にもならないではないかと考える人がいるかもしれません。

 

また私たちの中には、神様がおられるのなら、なぜ気候の変動や過酷な自然災害が発生するのかと思う人もいるかもしれません。これらのことは私たち人間が勝手な答を出すことはできません。人間は自然の営みを支配することはできません。逆に謙虚になって自然との共存の歩みをしなければなりません。先週の「愚かな金持ち」のたとえも、金持ちは有り余るほど物があれば、自分の人生を思い通りにできると考えていました。でもイエス様は人の命は財産によってどうすることもできないことを示されます。愚かな金持ちの心には神様のための場所も隣人のための場所もありませんでした。そしてそれは滅びへとつながる生き方でした。

 

私たちも現代という社会の中にあって、信仰を持つことの意味やその真の価値がわからなくなって、世の人々が持つ考え方と変わらないように歩んでしまっているところがあるように感じます。そのような中で今日私たちが耳にした福音は、目覚めて神様の呼びかけに応えて歩んだ人たちを神様が皆を食事の席につかせ、主人として給仕してくださる姿が描かれています。

 

今日の福音の中心は、神様が私たちのために食事を準備し給仕してくださることにあります。その日には主人である神様が帯を締めて、私たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださる食事が用意されます。私たちはそのような神様の心を知り、それを信じ希望することができます。

 

私たちにとって、完全な救いの実現は将来まで忍耐して待たなければならないのかもしれません。でも神様は神様の目に正しく映る生き方を大事にした人々を、決して放ってはおかれません。必ず大きな救いの喜びに招かれます。同時にそのために私たちの方もイエス様がおっしゃるように腰に帯を締め、ともし火をともして主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けられるように待っていることが呼びかけられます。

 

この「目を覚ましている」とは、いつもイエス様を意識し、イエス様を大切にし、少しでもイエス様の呼びかけに応えようとしている態度のことです。そしてそのような態度を私たちが取ることができるには、やはりイエス様が示しておられる将来約束されている天の食事のすばらしさ、神様が給仕してくださる食事に与ることができることのすばらしさを思うことです。

私たちの日常では主人が僕たちのために給仕することは考えられません。しかしイエス様はあえて主人が帯を締めて、僕たちのそばに来て給仕してくれることを言われます。主人は目を覚まして自分の帰りを待っていてくれる僕の姿を見つけたい思いで帰ってきます。救いとは目を覚まして待っていた僕とそれを見つけるために帰ってきた主人とが出会う喜びのことを指します。

イエス様が今日の福音でおっしゃろうとされた事は、今はまだ見えない、目を覚まして待っているしかない救いの喜び、でもそれは将来必ず現実になるという約束です。信仰とはそれを信じて、忍耐を持って待つ心の態度を言うのだと思います。

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