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2022年3月27日 四旬節第4主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年3月27日
  • 読了時間: 5分

ルカ15:01-3、11-32


今日、四旬節第4主日は、レターレ、喜びの主日と呼ばれ、祭服も紫ではなくバラ色のものを使っています。それは今、四旬節の中あって、四旬節が改めて主のご復活を、喜びをもって待ち望むための時であることを表しています。


私は、今から33年前、イエズス会に入会し、最初の修練を広島で行いました。その時の修練長の神父様から、修道生活をはじめたくさんのことを教えていただきました。その中で、覚えていることの一つとして今日の福音の私たちがよく知っている放蕩息子のたとえについて、このたとえ話は「放蕩息子」のたとえ話として知られているけれども、本当の意味は、「この父を見よ」ということだと言われました。イエス様が話されたこのたとえの中で描かれているこの父の姿を心に刻みなさいということです。私はこの「この父を見よ」という言葉がとても大事だと思います。イエス様がこの世に来てくださって、私たちに一番お伝えになられたかったことは、このご自分の父の本当の姿を、その心にある大きな慈しみを人々にお示しになられたかったということです。


私たちはこの息子である弟の罪は放蕩にあると考えます。大切な父の財産を無駄使いし、使い果たしてしまったからです。その息子の取った行動は、あまりに自分本位で身勝手です。それゆえに招いた事の結末は、自分で負わなければならないと誰もが思うでしょう。でもこの弟が犯してしまった本当の罪とは、その悪い行いよりも、自分にとって一番大切な父との関係から離れてしまったことにあります。父と自分が持っていた大事な関係、絆、つながりを自分の方から切って離れてしまった。そこに本当の罪があるのです。イエス様が教えられる罪とは、私たちが神様との関係を失って歩むことにあります。神様を忘れ、いつのまにか神様から離れて自分の思いだけで生きてしまっている。それゆえに自分中心になり、神様が望まれない生き方をしてしまっている。その結果、本当の豊かさ、心の平和を失ったまま生きている。これが罪の状態です。そしてこのような面は、誰の中にもあります。


弟はそんな中、父との関係をもう一度取り戻そうとして戻って来ました。もう自分は息子と呼ばれる資格はない。それでも雇人の一人として父のもとに置いていただけるように願ってみよう。そう思って父のもとへ戻って来たのです。父はその姿を遠くに見つけるやいなや、走り寄って抱きしめます。父はこの弟が離れてしまった日から1日たりともこの弟のことを忘れたことはなかったでしょう。ずっと心配して毎日を過ごしていたでしょう。そんな父にとって、この弟がどんなに哀れな姿になっていようと、そんなことはお構いなしに息子に最高の服を着せるように僕たちに命じます。私たちは、このたとえを聞くとき、その父のあまりの寛大さをすぐには理解できないかもしれません。兄と同じ立場に立って、父の取る態度を批判的に見てしまうかもしれません。でも、イエス様の思いは、「この父を見よ」ということなのです。


私は、この話を解くかぎは、関係と喜びということではないかと思います。罪を単に悪い行いと捉えてしまわないで、自分の今の神様との関係、自分がどれほど神様に日々心を向けることができているか見つめてみる。苦しいことやうまくいかないことがあっても、だからこそ心の中で自分のことをありのままに神様に伝えてみる。うれしいことも、悲しいこともすべて神様に表してみる。そのように私たちが神様との関係を大事にしていくことが、このたとえの弟と同じように父のもとに戻って来たことになるのです。私たちが大事にすべきこと、それは私たち一人ひとりと神様とのつながり、関係です。より親しみを込めて何でもお伝えできる、そのような関係を神様との間に築いていくことです。


四旬節で求められる本当の回心とは、この神様との深い絆、つながりを回復していくことにあります。回心の業として、犠牲を捧げたり、苦行を行ったとしても、自分の中での神様との親しさを失っているなら、行いそのものが空まわりしてしまいます。私たちが何度も聞いてきたこの有名な放蕩息子のたとえ話を、自分と神様との関係を見つめ直し、より親しいものしていくことへの呼びかけとして受け止めたいです。兄のように自分は父のもとから離れず、言われたことは何でも守ってきた、しかし父のそばにいつもいても、父との間で本当の親しさを築くことはできていなかった、そこに兄のもつ悲しさがあります。父はそのような兄に対しても慈しみのまなざしを向けます。そして兄にも弟が帰ってきたことをいっしょに喜んでほしい、喜べる心になってほしいと願います。私たちはどうでしょうか。私たちもこの父の向けられるまなざしを感じ取って、いっしょに弟が戻ってきたことを喜べる人になっているでしょうか。神様の寛大な思い、本当のよさを知って、自分もその心に合わせて歩むことができるようになっていく。それが、私たちにも向けられる神様からのメッセージだと思います。


今日、この福音に触れた私たちが、自分の心を神様に向かって大きく開き、何でも自分のことを神様にお伝えして、それを通して神様との深いつながりを日々実現していくことができますように祈りたいです。四旬節は、神様との親しい関係を深めるためにあります。

 
 
 

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