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2022年2月6日 年間第5主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年2月5日
  • 読了時間: 5分

ルカ05:01-11 年間5主日(2022年2月6日)


今日の福音は、イエス様がペトロを召し出される召命の出来事です。弱さを抱えていたペトロが、予想を超えた大漁という大きな出来事を目の当たりにして、すべてを捨ててイエス様に従う弟子になります。私は自分の場合はどうだったのかなと思い返します。私は父と母がカトリックの信者だったので、生まれてすぐ洗礼を受けました。子どもの時は両親と一緒に教会のミサに通っていたことを思い出します。それでも子どもの頃は、自分が将来司祭になるという思いはまったくありませんでした。普通に小中高、大学と進み、大きな変化が起きたのは大学生の時でした。私が大学の時は親元を離れて下宿をして大学に通っていました。そんな私に母は教会だけは行きなさいよと言っていました。そして一人で通うことになった教会で、信仰を日常の生活の中で生きる分かち合いのグループに参加することができました。その信仰の分かち合いのグループの中で、幼児洗礼だった私の信仰はより深められ、それがきっかけになって司祭への道を歩みだすようになりました。私がなぜ司祭になりたいと思ったか、それは信仰を生活を通してしっかり生きる、そんな教会が日本の教会には必要だと思ったからです。そしてそこには神様からの大きな導きもあったでしょう。


今日の第一朗読で読まれた預言者イザヤが生きた時代は激動の時代でした。戦いが絶えず、また人々の心は神様から離れるばかりでした。そして預言者は常に人々からの反発にさらされる運命にありました。このような運命を担いきるには、神様から使命を授けられたのだという強い自覚がなければできませんでした。イザヤは幻の中で「高く天にある御座に主が座しておられる」のを目にします。イザヤは、みずから進んで「私がここにおります。私を遣わしてください」と名乗り出ます。しかしイザヤが預言者として告げなければならないメッセージは救いではなく、滅びでした。従って、彼の言葉は人々から無視され続けました。そのたびに、イザヤは自分の召命を思い出し、それが再び人々へと立ち向かわせる力を与えたにちがいありません。


今日の福音書の場面もペトロの召命体験を描いています。そのペトロの言葉で印象深い言葉があります。それは「わたしは罪深い者です。」という言葉です。ペトロがそのような思いになったのは、大漁という神様の力ある業を目の当たりにしたからです。ペトロは大漁を見て、ひざまずき自分の罪深さを告白します。イエス様がなさった大漁という恵みがペトロの罪深さを自覚させました。ひざまずくというのは、へりくだる、自分の小ささを認める、同時に信頼できる方に自分をゆだねるという姿を表します。私たちが本当に回心するためには、神様からの大きな恵みにふれる体験が必要です。私たちはわかっていてもやはりお願い中心、恵みを求めることだけにとどまる信仰になりがちです。そこから大きく前進していくためには、やはり神様の大きな力に実際にふれる体験が必要になります。ペトロは自分の経験や常識を捨て、イエス様の言葉に従いました。網を降ろしても無駄だと決め込む他の漁師たちの中にあって、ペトロはそれでも網を降ろそうとし、ただただイエス様の言葉に従いました。そしてそこに想像を超えた大きな大漁という出来事が起こりました。人々を圧倒するほどの大きな力、神様の力が示されました。


私たちの現代においてもそのような出来事は起こっていると思います。目を見張るような出来事ではなくても、確かに神様の力が示されている出来事が私たちの周りに起こっているのだと思います。そして大事なことは、教会とはその力あるイエス様の言葉を信じて、そのもとに集まっている集いであるということです。人間の経験や常識以上にイエス様の話される言葉に聞き従おうとする者の集いこそが教会です。そして私たち人間からのその大きな信頼に神様はちゃんと応えてくださるでしょう。私は、自分でやはり自分は司祭になってよかったと思います。

人間的な幸福という価値観だけで測るなら、割に合わない生き方でしょう。しかし人間的な幸とか不幸という価値を超えて、神様から来る幸福感というものがあると思います。一人だけどひとりではない。さみしそうに見えるけど決してさみしくはない。逆に恵みをたくさんいただき、そして素朴にそのことを感謝して生活することができる。


ペトロは人間を捕る漁師、すなわち人間を捕えて生かす者になる使命をイエス様から受けます。

皆を生かすために働き掛けをしていく使命を受けます。最初は自分の罪深さ、小ささの自覚から始まるでしょう。でも大きな神様からの恵みの体験を経験していきながら、人間の経験・常識からくる力ではなく、神様の言葉の力に自分の土台を置く生き方に変わっていくということです。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」という美しい返事をしたペトロ。イエス様に従うとは、理屈ではありません。自分の頭ではわからないけれど、イエス様が言われることは、きっと大切なことにちがいないと素直に聞き従う態度。無駄だとわかっていても、やってみようと思う信仰。マリア様も天使のお告げに対して「お言葉通りなりますように」という返事をなさいました。すべてを理解しつくされた上での返事ではありませんでした。それでも神様を信じました。無条件に神様の言葉に聞き従っていく態度。そしてその無条件に聞き従う信仰の態度に神様は応えてくださるということ。私たちも、その信仰の態度を神様から問いかけられているのだと思います。

 
 
 

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