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2022年10月9日 年間28主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年10月8日
  • 読了時間: 4分

更新日:2022年10月15日

ルカ17:11-19


重い皮膚病を患っていた10人の人がイエス様によって清められます。重い皮膚病は特に苦しみが大きいものです。私は以前イエズス会の修練者だった時、御殿場の神山復生病院で、1ヶ月の実習をさせていただいたことがあります。そこで療養されている人々との出会いの中で多くのことを学びました。ハンセン病を患うことで背負うことになった大きな苦しみと十字架。しかし同時に清い心をもって生活している多くの方々と出会うことができました。病気は確かに人生の中での大きな十字架です。でもそれを通して神様の慈しみに触れることができるなら、人生のすばらしい糧になることも本当です。


イエス様の憐れみの業によって重い皮膚病を患っている10人皆がいやされました。そしてその中の一人サマリア人が感謝を表すために戻って来ました。そしてそのサマリア人にイエス様は言われます。「あなたの信仰があなたを救った」。なぜ「神の愛があなたを救った」とは言われずに「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのでしょうか。そしてここで言われた信仰とは何でしょうか。信仰とは生活の中に神様の働きを見出す心の目のことです。感謝を表すために戻ってきたサマリア人は、自分の身に起こった出来事の中に神様の恵みと慈しみの働きを感じ取ることができました。神様がこの自分を憐れんでくださった。神様がこの自分をいやしてくださった。そして真に生きることができるようにしてくださった。そのことに気がついたサマリア人はイエス様の元に戻ってきました。神様に感謝を表すことが自然にできるくらい生活の中に神様の働きを見出す心の目を持っているならどんなにすばらしいでしょう。そしてその心の目がその人に真の自由と喜びを与えるのだと思います。たとえどんな状態に置かれていても、そこに神様と自分のつながりを見出すことができるなら、そしてそこに神様からの無償の愛を感じ取ることができるなら、それこそが私たちの救いなのだと思います。


他の9人は病気がいやされたことを喜んでも、そこに神様の働きを見出すことはできなかったのかもしれません。病気がいやされた喜びで終わってしまい、そこに神様が働いてくださったことまでに思いが至らなかった。神様に自然に感謝を表そうとまでは思うことができなかった。

この人たちは病気がいやされても、きっとまた病気とは違う何かに縛られてしまうことでしょう。行き詰まり、倒れそうになる時、又助けを求めることを繰り返すでしょう。自分の普段の生活の中に神様の働きを見出すことができなければ、神様に感謝することはできないでしょう。神様を賛美し感謝できる人になる。その心のあり方がその人を束縛から解放します。そして真の救いはここにあります。


信仰とは生活の中に神様の働きを見出す心の目のことです。何気ない日常生活の内に神様の働きを感じ取る心のありかたのことです。だとしたら私たちはどのように自分の生活の中で神様の働きを見出していったらよいでしょうか。自分が神様から恵みを与えられていることを当然のように考えて、神様のいつくしみに出会いながら、それに気づかないということがあります。毎日の生活の中でいろいろなかたちで神様から恵みをいただいているのに、そのことに気づくことなく体験する出来事をただ流して過ごしてしまうことがたくさんあります。出来事の中に神様の業を見つける心の態度、習慣が必要です。何気ない出来事の中に神様の呼びかけやメッセージを感じ取っていく習慣をつけることです。


もちろんすべての出来事を神様に結びつけて捉えることは不可能でしょう。それでも神様が存在して、働き続けてくださっておられること、メッセージを送り続けてくださっておられることを信じていくなら、やはり何かが見えてくるのだと思います。イエス様がこのサマリア人に示されたこと、それは「あなたは、あなたの信仰の目で、神の愛といつくしみの業を見、気づくことができました。それこそが救いなのです」ということです。神様がこの私のために実際に働いてくださっていることを信仰の目を通して見ることができること、それが救いなのだということです。


病気が治ったとしても、自己中心的な生き方、ものの考え方から解放されなければ、本当に救われたことにはなりません。神様の目で物事を見ることができるようになり、神様の働きや心がわかるようになること、それが救いです。私たちも感謝と賛美を捧げるために戻ってきたサマリア人のように、真の信仰をもって、本当の救いの実感を味わうことができるようになりたいです。そのために普段から、自分の生活の中に神様の働きを感じ取ることができる心を培っていきたいです。




 
 
 

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