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2022年1月30日 年間第4主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2022年1月29日
  • 読了時間: 5分

ルカ4:21-30 年間4主日(2022年1月30日)


「皆はイエス様をほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。」とあります。そしてこの後に、皆が真の意味でイエス様の言葉を受けとめ、賛美と感謝を捧げてイエス様に聞き従う者になっていったのであったら、どんなによかったかと思います。しかし、実際には民は「この人はヨセフの子ではないか。」と言っています。これはイエス様が自分たちと同じ場所で育ち、共に生活してきた何ら違いのない者ではないかという意味だと思います。でも同時にイエス様がなさる数々のすばらしい業を目の当たりにして、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいないとあるように、なぜこの男にこんな力が与えられているのか知るよしもないが、自分たちは同郷の者なのだから、他の場所で示したように自分たちのためにもすばらしい業をしてくれることを期待したということだと思います。そこで、ただイエス様のすばらしい業、力ある業を期待したということだけであったら、そんなに大きな問題ではなかったかもしれません。しかしイエス様は民の心のうちにある、イエス様と同郷であるというところからくる何か特権意識のようなもの、イエス様の力を自分たちにとって利益となること、都合のよいものとして使おうする心があることを見抜かれ、それを退けられたのだと思います。その結果どうなったかというと、これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエス様を町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとしたということです。


神の独り子として天の父から遣わされ、人々を真の救いの道へと招こうとされたイエス様が、町が建っている山の崖まで連れて行かれ、突き落そうとされます。あんなに人々のことを思い、人々のために真の救いの道を示そうとされたイエス様が、人間の持つ自分の都合を第一にする態度によって退けられます。私たちはイエス様のすばらしさを知っているので、この人々の取った態度に驚かされます。そして民はなぜそこまで怒りを覚える必要があったのかとも思います。そこには、民のイエス様に対する期待と、イエス様の力を自分たちの思い、願いのために利用したいというご利益を願う態度に陥ってしまったことが考えられます。


私たちも当時の民が取った態度をそのまま否定することはできないと思います。私たちもこのように主日には教会に集まり、共にミサを捧げています。でも私たちはどのような思いを持ってミサに与っているでしょうか。それともあんまり意味など考えずに、無意識に参加しているのでしょうか。ミサを大事にしておけばきっと悪いことはないだろう、神さまからの御保護をいただけるだろうという思いだけで教会に来ているのでしょうか。今日の福音の場面と同じように、イエス様はミサに与る私たち一人ひとりに何を望んでおられるでしょうか。


第一朗読のエレミヤの預言にあるように、旧約時代、父なる神は人間の中から預言者を立て、彼らに御自分の言葉を託し、それを語るようにされました。しかし預言者たちは皆、民から退けられました。神さまの言葉を預かり語ったがゆえに、民から疎まれ迫害されるようになりました。しかし、神さまはエレミヤをはじめとする預言者たちに、「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。・・彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出す。」そう言われます。神さまも預言者たちが負う使命がたやすいものではないことを承知しておられます。それでも預言者の使命を果たす者が必要なのだと彼らを遣わされます。


イエス様も天の父の独り子としてこの世に遣わされて私たちのもとへ来てくださいました。私たち人間と同じように生まれ、人々と同じ生活をしてくださいました。30年近くナザレという小さな町で過ごしてくださいました。きっとその姿は、誰もが気づかないくらい人々の中に溶け込んでくださっておられたのだろうと思います。イエス様と同郷で生活した人々が、自分たちは特別だと特権意識をもってイエス様に期待してしまったのも当然だったかもしれません。


しかし、それでもイエス様は御自分がこの世に来られた意味をゆるがすことはなさいません。人々の願いと期待に応えることだけのために御自分の力を使おうとはなさいません。あくまで、御自分が神の子として御自分の父から委ねられている使命、人々を御自分の父のもとへ導く使命に突き進まれます。イエス様も時に人間からの無理解に苦しみを覚えられます。イエス様自身も排斥や、屈辱を経験されます。それでもイエス様は最後まで御自分の歩むべき道を歩み通されました。


私たちも今日、この福音の場面を目にして、イエス様を自分の都合に利用することで、イエス様の言葉と力が私たちの中を通り抜けてしまわないように気をつけたいと思います。イエス様を大事にし、イエス様と日々つながり、そのために毎日イエス様に心を向けてイエス様と何でも話して、イエス様の呼びかけに応える者になっていきたいです。イエス様とつながり、イエス様の思いを自分も生きることこそ真の幸せにつながる道であることを心にしっかり刻みたいです。





 
 
 

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