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2021年9月12日 年間24主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2021年9月12日
  • 読了時間: 5分

マルコ08:27-35 年間24主日(2021年9月12日)


今日、私たちは敬老のお祝いを迎える方々と共にこのミサを捧げています。年齢を重ねるということは生易しいことではないと思います。いろんな体の不具合を味わったり、生きていく上でのしかかる様々な問題を背負って歩むことも求められます。そして神様が守ってくださるから何も困難がない、困難がなくなるということでもないと思います。でも後からわかります。神様が共にいてくださったこと。そしてご自身の業で導き守ってくださっていたこと。同時にこの自分も困難を味わう中で精一杯歩むことを神様は望んでおられることを。


今日の福音にイエス様の言葉として、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。とても重みのある言葉です。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様の後に従っていくこと。どうしたらそのような生き方ができるでしょうか。私はやはり自分の心の中に深い確信のようなものがあって初めてできると思います。第一朗読で読まれた旧約聖書のイザヤの預言にあるように、苦しむ僕が苦難に耐えられるのは、彼の正しさを認める方が近くにいて、助けてくださると知っているからです。イザヤの預言にこう書かれています。「5主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。6打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。7主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている。わたしが辱められることはないと。8わたしの正しさを認める方は近くいます。」(イザヤ5:5-9)


苦難を受け入れる力は、神様への信仰と信頼から生じます。どんなに苦しくても、どんなに困難があっても、神様はおられるという確信。そして私たちが精一杯生きる中で、神様は必ずご自身の業を行ってくださるという確信です。苦しみのただ中にあっても、また逆に苦しい時だからこそ、神様の望まれる御心に従い続けたいという思いを起こしたいです。なぜなら、苦しみの中でイエス様の御心に従い続けることこそ、真にイエス様を愛することになるからです。人を愛するとは、やはりその人のために苦しむということが求められます。そしてイエス様を愛するとは、イエス様のために苦しむことです。それは毎日の中に生じる小さな自己犠牲を捧げ続けていくことかもしれません。でも、それがイエス様が言われる自分を捨てることになり、それを通して私たちの真のいのちを救うことになります。ゆがんでしまった理想的とは言えないあるがままの人間関係を「十字架」として受けとめ背負うことも意味があります。なぜゆがんでしまった理想的とは言えないあるがままの人間関係を「十字架」として受けとめる生き方をしなければいけないのでしょうか。それは、それを通して神様と出会い、神様の心に触れる体験をすることができるからです。このような実践なしに神様の本当の心を知ることはできないからです。受け入れがたい困難、現実を十字架として背負う。そのようなことのために自分は洗礼を受けたのではないと思う人たちがいるかもしれません。洗礼を受けたのは、そのような苦しみから解放されることを願ったからだ思われるかもしれません。私たちの生活はなかなか理想状態にはなりません。でもその不十分で欠点だらけの状態を自ら担っていくことも神様への大きな愛になります。神様の思いに忠実であろうとすればするほどこの世で苦しみを受けるという現実、かつてのキリシタン殉教者の方がたもそうでした。その現実の中で、苦難を受け止め従う者に神様は救いを約束してくださることを信じるのがイエス様が示された復活を信じる信仰です。


神様に従っていてなぜ苦しみがあるのか。それはキリスト者だからといって明確な答えが与えられているわけではありません。しかし私たちは神様が、私たちの苦しみを単に望む方ではないことを信じます。私たち人間の方からはその意味がすぐには理解できないような中でも、神様が大切にされる思い、生き方を大事にし続ける。神様に心を向けて、神様につながって生活し続ける。その時私たちは、単に報いを求める生き方ではなく、神様に捧げるべき真の生き方、純粋に神様の御心を求める生き方、それを神様に捧げるようになります。こうしてミサに与っているのも、ただ自分の願いを捧げることよりも、神様を大切にしたい、だからミサに与っているという思いを強く持ちたいです。


私たちは苦しみの体験を通して私たちが捧げる祈りの意向が清められるのかもしれません。利己心が清められ、自分中心の思いではなく、神様に全てを委ねる祈りを捧げるようになる。その祈りを神様は救いの道具として用いてくださいます。神様は必ず私たちが捧げる様々な困難、苦しみを神様が望まれる新しい世界、神の国の建設のために役立たせてくださいます。神様につながる上で味わう苦しみだったら恐れる必要はありません。神様はそれを大きな祝福に変えてくださるでしょう。十字架なしの救いはありません。私たちはそのことを恐れることなく信じて歩みたいです。きっと神様は、私たちの思いに応えてくださるでしょう。

 
 
 

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