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2021年8月29日 年間22主日

  • 執筆者の写真:  カトリック戸塚教会
    カトリック戸塚教会
  • 2021年8月29日
  • 読了時間: 3分

マルコ7:1- 年間22主日(2021年8月29日)


以前、私が広島の教会で働いていた時、夏に市内の教会合同で子どもたちの錬成会を行ったことがありました。教会で一緒に泊まりながら、勉強やいろんな活動をしました。午後は一緒にプールに行って泳ぎました。プールに行くために市内を走る路面電車に乗って行ったのですが、事前に皆で話し合って普通の席でも電車の中では座らないようにしようと決めていました。でも実際プールで泳いで疲れて、また席も空いている中で立っているのはどうかと感じました。そしてその場の判断で子どもたちに一般の席で空いていたら座ってよいことにしました。決まりというのは、何が何でも守らなければいけないものというより、大事なことはその心だと思います。イエス様が私たちに課したかった掟もそのようなものではないでしょうか。いつも神様に聞き、問いかける心があれば、細かい規則がなくても神様が大事にされる愛の心を大事することができます。本当の掟とは文字で書かれたものではなく、心の中に神様が大事にされる心を保っていることです。


イエス様は預言者イザヤの言葉を使って言われます。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」神様から与えられた掟をより生活の中で実践していくために、様々な細かい規定が決められていったのが当時の社会でした。そしてその細かい決まりが言い伝えとして伝えられていきました。その細かい決まりはもともとは律法を大事にし、それを具体的な生活の中に適応させていこうとの思いから始まったものです。しかしその細かな規則に縛られてしまい、律法を与えられた神様の心から遠ざかってしまったのも事実です。でもファリサイ派や律法学者たちはその過ちを改めることをしませんでした。汚れというものは、食べ物やお皿、またそれを食べる手から生み出されるのではなく、本当の汚れを生み出しているのは、神様から離れた人間の心なのだとイエス様は指摘されます。どんなに外面的なものを洗って清めても、人間の内部の心を清めることができなければ意味がないということです。しかし当時のファリサイ派や律法学者たちは外面を清める細かい規定をたくさん作ってそれを細かく守ることが自分を汚れから守ると信じていました。しかしイエス様はそれを本来の神様の思いに引き戻そうとされたのです。清めるのはものや体ではなく、一人ひとりの心なのだ。そして清めるとは、神様の思いに心を向け直すことなのだ。それがイエス様が示されたことです。私たちも、いつのまにか神様の思いから離れて、ただ決まりに従って行動しているところがあるかもしれません。


細かい規則を定めることによって掟をマニュアル化したファリサイ派の人々。それはマニュアル通りにやっていれば救いが保障されると考えたからだと思います。しかしそれは神様の心から遠ざかる結果になりました。神様は行いを細かく定めたマニュアルではなく、私たちの心を大切にされます。神様は私たちがどのような心でそれを行ったのかその心をご覧になります。そしてその心が行いの結果よりもっと大切なのだということです。外面的な清さより、心が神様の思いと同じかどうかがもっと大事。本当の掟は心の中に神様の心を保っていることであること。外面に写る部分より、もっと心の中、内面を清めることに力を注ぎなさい、それが今私たちに語られているメッセージだと思います。イエス様が重視されるのは、外面以上に内面であるということ。そしてイエス様がお考えになる救いは、外的なことではなく内面が真に清くなり、神様の心と同じになることです。それをイエス様は呼びかけ、そして働きかけ続けられています。

 
 
 

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