ルカ01:39-54 聖母被昇天(2021年8月15日)
マリア様は私たちにとって親しみやすい方、それは多くの人々の思いだと思います。マリア様をやさしい母として受け止め、マリア様の温かなご保護を願いたくなる。それは決してまちがった態度ではありません。マリア様はご自分に助けを求めて近づいてくる人々を本当の母として抱きしめてくださるでしょう。同時にマリア様御自身の思いは、もし私たちがマリア様を崇めようとするならマリア様はきっと私たちに、イエス様の姿を指し示すようになさるのではないでしょうか。マリア様は人間である私たちが神の子であるイエス様に向かうことを何よりも望まれます。そしてそのイエス様がおっしゃることを私たちが大切にして生きることを願われ、そのために私たちと歩みを共にし、支えたいと思ってくださっています。マリア様御自身、天使からお告げを受けられて、御自分が神の子の母となること、聖霊によって身ごもるということ、この人間としての思いをはるかに超える神様の計画に大きなとまどいを感じられたと思います。でも神様を誰よりも大切にされていたマリア様にとって、この天使のお告げに対する返事はただ一つ、「お言葉通りこの身になりますように」というものでした。自分の思いを超えて、神様がこの私にその役割を引き受けることを願っておられる。なぜ私なのかはわからない。それでも神様は救いの業の実現のために、この私の協力を求めておられる。だとしたら、私にできる返事はただ一つ「はい」ということ。これがマリア様の思いだったでしょう。マリア様はご自分に起こったこの不思議な出来事を心にとめながらも、やはり誰かにこのことを伝えたかったのだと思います。誰もが理解してくれるわけではない。でも、その中で洗礼者ヨハネをその身に宿していたエリサベトなら私の身に起こったことを受け止めてくださる。そう思ってエリサベトの所を急いで訪ねられたのだと思います。当時ナザレからユダの町まで急いで歩いて3日かかったそうです。そして共に神様を信じ、神様の救いの業に協力しようとしたマリア様とエリサベトの出会いは、聖霊に満たされ喜び溢れるものになりました。人間の思いではなく、神様の思いに心を向けそれを信じ、生きようとしたマリア様とエリサベト。そこには人間の思いを超えた聖霊に満たされる喜びがありました。私たちが神様から招かれている生き方もここにあると思います。
今日、マリア様の被昇天の祭日にあたって私たちが心にとめたいことがあります。私たちの心には誰にも自分の今までの人生の歩み、祈り、働きは無駄だったのだろうかという思いがあります。本当に意味があったのかという思いです。その中でマリア様が生涯を終えられた後、からだも魂も天に上げられたという出来事は、私たちに大切なメッセージを伝えてくださいます。マリア様の生涯が示していることは、イエス様が望まれることに従って歩む事は、その過程で必ず苦しみや困難を背負うことになる。しかし人生の中でそれらの出来事を味わったとしても、私たちの人生は決して無駄には終わらないということです。マリア様の生涯にも多くの苦難や困難が続いたと思います。それでもその中にあってイエス様を通して示される神様のみ旨を心にとめ、それを生き続けられた方がマリア様です。そして天の父は、そのマリア様の生涯を顧みられ、被昇天というからだも魂も天の栄光にあげられるしるしをマリア様にお与えになられました。そして私たちにも天の栄光の歓びに与ることを求めるように招かれます。
今日の福音のマリア様の賛歌の中で、天の父の思いが示されます。いつの日か天の父は力を示され、身分の低い者、それゆえに多くの苦しみを背負い生きた人々を高く上げられ、飢えざるをえなかった人々をよいもので満たされます。決して苦しみのままに終わらせることはなさいません。逆に権力やその地位に甘んじ、人々と痛みを分かちあうことをしなかった人々を追い返されます。人間の知恵と力で築いた位置関係を神様は逆転させ、小さくされた者たちへの愛を示されます。天の父は人間の用いる価値観ではなく愛に基づいた新たな価値で永遠の命の世界を築かれます。マリア様の中に実現した被昇天という出来事、それを通して私たちにお示しになられたかったこと、それはこの世にあって苦難にぶつかっても、その中を懸命に天のゴールを目指して、希望をもって歩むことです。そのような生き方を天の父は、マリア様と同じように、天の栄光に上げてくださるということです。私たちもマリア様を私たち信仰者の生きた模範として、またよき助け手として自分の中に保ち、マリア様と共に天のゴールに向かって歩んでいけますように祈りたいです。そしてそれが私たちキリストを信じる者の生き方だと信じます。
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