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執筆者の写真 カトリック戸塚教会

2021年11月7日 年間32主日

マルコ12:38-44 年間32主日(2021年11月7日)


亡くなられた方々のことを想って祈るとき、その心は必ず届けられていると感じます。また、「祈ってくれてありがとう」という声が聞こえてくる感じもします。互いのことを思い合う愛の心は死で離ればなれになるのではありません。愛の心は永遠です。いつも心にとめ、互いのために祈り合う。それはとてもすばらしいことです。私がよく思うことですが、人が息を引き取る時に「ありがとう」と言って自分の生涯を終えることができるなら本当にすばらしいと感じます。そしてできるなら自分もそうありたいと思います。私たちの死の現実というものは、多くの人が病室のベッドの上で苦しい息をしながら、最後の力をふりしぼりながら亡くなっていくということかもしれません。そしてそのような中で「ありがとう」などの美しい言葉、感謝の言葉を発して息を引き取ることができる人などいたとしてもとても恵まれた人だけだということかもしれません。それでもやはり気持ちとして、心のあり方として、自分の生きる最後を感謝の言葉をもって締めくくりたい。また最後の最後の時でなくても、死が近く意識されたとき、まだ意識がある時、言葉が発せられるときに「ありがとう」と言いたい。その気持ちを大事にしたいということです。このような思いはとても大事なことですし、また普段からそのような思いで生活していないと、なかなかその時そう言えないのではないかとも思います。亡くなられた方々が私たちに伝えたい一番の思いは、「今を大事に大切に生きてください」ということだと思います。私たちが神様に自分を向け、神様が望まれる心を生きるように努めていくこと。キリスト教の特徴であり中心は、死を越えた永遠の命にあずかる希望があることです。そしてこの希望がこの世において愛を生きる力になります。愛のために自分を捧げていく生き方、その生き方を続けていくこと。


今日の福音でイエス様は神殿に置かれた賽銭箱に人々がお金を入れる様子をご覧になっていました。その中で貧しいやもめが、レプトン銅貨2枚を入れました。それは本当にわずかのお金でした。イエス様はこのやもめをご覧になって「この貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」と言われます。イエス様が言われる「たくさん」とはお金の額のことではなく、心のことです。彼女は自分が差し出せる精一杯の心を捧げたということです。彼女は貧しいやもめとして、誰にも頼ることができない生活を送っていたのかもしれません。そのような状態の中で、神様だけが彼女の支えだったでしょう。生活は貧しくても、また貧しさの中で生きているからこそ、逆にまっすぐに心を神様に向けて、生活の土台を神様に置いて歩むことができていたということでしょう。人の幸せは、人間が使うものさしでは計れないと思います。その人の神様とのつながりの強さによって計られるものです。貧しいやもめは、乏しい中から自分の持っている物をすべて入れました。それはこのやもめが神様を第一にし、そこに絶対の信頼を置いて生きている姿を物語っているということです。大事なことは、自分は何に一番の信頼を置いて生きているかということでしょう。


第一朗読で読まれた旧約聖書の列王記(上17:10-16)に興味深い出来事が記されていました。ひとりのやもめのところに預言者エリヤが現れ、水を飲ませてくださいと頼みます。やもめが取りに行こうとすると、エリヤは「パンも一切れ、手に持って来てください。」と言います。やもめは「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と答えます。エリヤはそれを聞いて「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の表に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉どおりにしました。すると主がエリヤによって告げられたお言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなりませんでした。


この出来事が伝えていることは何でしょうか。それは神様への信頼が、人間の思いを越えた大きな恵みをもたらしたということ。人間の小さな思いを越えて神様が大きな業を示してくださったということ。私たちの身近な出来事の中にもそのような体験がないでしょうか。神様への大きな信頼、神様に自分を明け渡していく中で、逆に大きな恵みをいただいた体験。これは私の体験ですが、私が司祭への道に進もうと決めたのは大学生の時でした。不思議な神様の呼びかけとその時のよき教会の仲間の支えのおかげでこの道を歩み始めました。それを決める時、たくさんの困難がありました。それでも私はこの不思議な呼びかけ、自分の心の中で感じるうながしのようなものに応えようと決めました。これから先、何が自分に待っているかわからない。それでもこの道を歩むように望んでくださっているその神様に全てを委ねよう、自分ができる精一杯のことを捧げようと思いました。自分が神様に捧げたものが大きかったか小さかったかは、神様がお決めになることでしょう。それでも神様が喜んでくださるものは、捧げたもの自体よりも、捧げようとしたときの自分の心の中のことでしょう。神様は神様を信じて、自分を委ねて、そして自分が捧げられる精一杯のものを捧げてくれる人々を待ち望んでおられます。神様が喜んでくださる捧げものをする。そのような人生を送る。それが私たちにとって一番大切なことじゃないかなとそう信じます。

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